ふと、蕪村が女弟子の「柳女」にあてた手紙を思い出した。この「柳女」さんは、京都、伏見の女流俳人。ある日、自作の俳句を蕪村に送った。
なつかしや 朧夜過ぎて 春一夜
蕪村はその返事にこの句に対する批評と添削を述べている。
朧夜過ぎて
今宵はわけておぼろなるは、春のなごりを惜しむゆゑかと御工案おもしろく候。
されどもこれにては朧夜の過ぎ去ることになりて、過不足の過にはならず候。なつかしや 殊に朧の 春一夜
右のごとくにておだやかに聞え候。それを又更におもしろくせんとならば、
なつかしや 朧の中の 春の一夜
桃にさくらに遊びくらしたる春の日数のさだめなく、荏苒として過ぎ行く興像也
心は、朧々たる中にたった一夜の春がなごり惜しく居るやうなと、無形の物を取りて、形容をこしらへたる句格也。又右の案じ場より一転して、春一夜 ゆかしき窓の 灯影哉
まだ寝もやらぬ窓中の灯光は、春の行衛を惜しむ二三友なるべし。これら秋を惜しむ句にてはあるべからず。
以下は、私の現代語訳。
朧夜過ぎて
(春の夜は朧夜にきまっているけれど今夜はとくにおぼろなのは、この句を詠んだひとが春のなごりを惜しんでいるせいではないか、と工夫したところがおもしろい。ただし、この句では、もう春の朧夜もこれでおしまいということになってしまうので、春の朧夜をぴたっと詠んだことにはならない。
春の夜はなぜか心もときめくものだが、とくにおぼろ夜の春の一夜となれば、わすれられないなつかしさがこみあげてくる。
こんなふうにすれば、春のおだやかな気分がひびいてくる。あるいはまた、もっと味わい深くしたかったら、おぼろ夜がつづく季節だけれど、今は記憶もおぼろながら、あの春の一夜のことが、なつかしくよみがえってくる、という一句はどうか。
春になって、桃が咲いた、桜が咲いた、と遊び暮らす日々がつづいて、いつしか春も過ぎようとしている。ただ、浮かれさわいで暮らした身には、何もかもおぼろめいていながら、たった一晩の春のできごとが、今にして名残惜しく思われる。描写ではなく、内面をさぐって俳句のかたちをつくったところが俳句の結構である。そしてまた、こういう工夫から、さらに視点を変えて、おぼろ夜を詠むのではなく、春の一夜、夜更けの時刻だが、部屋には寝具をととのえながら、まだ寝ないで、たけなわの春が終わろうとしているのを惜しんでいる。窓辺におぼろ夜ほのかな灯影が揺れて、その気配もなにやら奥ゆかしい。
こういう情景は春の季節なればこそ、蕭条たる秋を惜しむ俳句であってはならない。)
蕪村は、「柳女」の才能に大きな期待をもっていたらしく、手紙の末尾に、
三月尽の御句甚だおもしろく候故、却っていろいろと愚考を書付け御めにかけ申し候。近頃の御句と存ぜられ候。
と、激賞している。こういう手紙にも、蕪村の暖かい人柄とするどい批評性が読みとれる。「近頃の御句」は、最近の傑作と訳していいだろう。
蕪村は、「柳女」に返事をかきながら、中国の詩人を思い出している。
三月正当三十日 ケフハ三月ツゴモリジャ
風光別我苦吟身 春ガ我ヲステテ行クゾ ウラメシイコトジャ
勧君今夜不須睡 ソレデイヅレニモ申ス コンヤハ ネサシャルナ
未到暁鐘猶是春 明ケ六ツヲゴントツカヌ中(うち)ハヤッパリ春ジャゾ
蕪村の注釈がついているのだから、私が訳す必要はない。ただ、こんな詩を読むにつけても、三月にみまかった妻のことを思い出すのだった。そして、「春が私を捨てて行くぞ。うらめしいことじゃ」とつぶやく。