戦後の私は、アメリカの文学に関心をもったが、その対象はミステリ-に限ったわけではなかった。
まだ、ポケットブックもろくに買えない頃、サローヤン、ハメット、ヘミングウェイにつづけて、私が読みつづけた作家がホレース・マッコイだった。
もう誰も知らない作家だが――最近、常盤 新平の訳が再刊された。常盤 新平にこの作家を読ませたのは私だった。
文学、人生、社会について何も知らなかった私が、この作家を読むことでようやく自分の内部に測鉛をおろした、そんな感じだった。ようするに、あたらしい世界を発見させてくれた作家のひとり。
私がホレース・マッコイをはじめて読んだのは1946年の冬だったと思う。戦後のこの時期に、アンドレ・ジッドがホレース・マッコイを読んでいた。このことを知った私は大きな「衝撃」を受けた。そればかりではなく、やがてサルトルやカミュも読んでいたことを知った。このあたりのことは『ルイ・ジュヴェ』(第六部・第一章)で、ふれておいた。
ホレース・マッコイから、蕪村のことばを思い出す、というのは突飛だが、
発句集はなくてもありなんかし。世に名だたる人の発句集出て、日来(にちらい)
の聲誉を減ずるもの多し。況んや凡々の輩をや。
ホレース・マッコイは『廃馬を射つ』以後、「日来(にちらい)の聲誉を減ずるもの」しか書けなかった作家だった。しかし、わずか1冊でも、すばらしい作品を残したことを祝福してやりたい。そんなふうに思わせる作家だった。