1714 (私の歳時記・4)

渋沢 龍彦に「神田須田町の付近」というエッセイがある。
書き出しは――
いまは路面電車は廃止されて通っていないが、かつて都電が東京の街をはしって
いたころ、神田須田町の停留所は都電の交又点に位置していて、よく乗換のため
に乗ったり降りたりしたものであった。戦前には、近くに広瀬中佐の銅像が立っ
ていて、子どもの私は電車で通るたびに、ちらりと窓から銅像を眺めなければ気
がすまなかったものである。

少年時代の渋沢さんは、滝野川に住んでいた。

滝野川といっても、駒込の近くだったから、都電はいつも神明町の車庫前から乗って、千駄木町から池ノ端、上野に出て、万世橋、そして須田町というコ-ス。
私は、本所に住んでいたから、柳島から出る都電で、押上か業平橋から須田町行きに乗って、上野広小路から、黒門町、万世橋、そして須田町に出る。
須田町で渋谷行きに乗り換えて、駿河台下まで。約5分。

こんな文章を読むと、なつかしさがこみあげてくる。
渋沢さんは書いていないが――広瀬中佐の銅像が立っていたのは、須田町のひとつ手前の万世橋だった。

明治37年(1904年)2月、日露戦争が起きた。
2月24日、日本海軍は、第一回、旅順港閉塞作戦を行う。つづいて3月26日、ふた
たび旅順港閉塞作戦を行ったが、海軍少佐、広瀬 武夫が戦死した。
広瀬は最後に撤収しようとした部下の杉野兵曹長の所在がわからなくなって、船艙に降
りようとして被弾、即死した。中佐に昇進する。
広瀬中佐の銅像は、上部に中佐が仁王立ちになり、下から兵曹長が見上げているポ-ズ
のもの。敗戦後すぐに処分された。

中学生の私も電車で通るたびに、電車の窓からこの銅像をかならず眺めたものである。

少年時代、私は渋沢君とおなじ路線の電車に乗ったわけではないが、一度ぐらい須田町
ですれ違ったことはなかったか。そんな、たあいのない空想が楽しい。

三月や 冬のけしきの 桑一本      丈 草

(私の歳時記・4)