私のブログ、アクセス数が10万に達した日、私としてはめずらしい集まりに出席したのだった。
じつは「日本推理作家協会」主催の「土曜サロン」で講師をつとめた。
この土曜サロンは「日本探偵作家クラブ」の頃に江戸川 乱歩が中心になってはじめられた「土曜会」が前身だが、「推理作家協会」になってからは南青山で「土曜サロン」として現在、年6回、開催されている。
石井 春生さんをはじめ事務局の方々にお世話をいただいた。
テ-マは私の任意ということなので、私がミステリ-の翻訳をはじめた「戦後」のミステリ-の状況や、翻訳についての回想といったことにしていただいた。
いまから、70年近くも昔の話なので、あまり興味をもつ人もいないだろう。当時、ミステリ-の翻訳をはじめていた人たちのほとんどが鬼籍に入っている。したがって、もう誰の記憶にもないようなことを話す程度なら許されるかも知れない。
「土曜サロン」での私の講演は、戦前から日本の推理小説を読みつづけてきた少年が、「戦後」になって、文学批評をめざしながら、ミステリ-をはじめ、ひいては、SFから怪奇小説、歴史小説などの翻訳をつづけたことを中心に、「戦後」のある時期までのアメリカのミステリ-の変化を述べることになった。
正直にいって、当日、私自身は健康状態に懸念があった。なにしろ老いぼれのもの書きなのだから。
とにかく足もともおぼつかないので、親しい友人2人にお願いして同行していただくていたらくであった。
付添ってくださったのは、旧知の作家、山口 路子さん。そして翻訳家の田栗 美奈子さんのおふたりだった。
山口さんは、美術関係の著作に、『美神(ミュ-ズ)の恋~画家に愛されたモデルたち』、小説『軽井沢夫人』、『ココ・シャネルという生き方』をはじめ、オ-ドリ-・ヘップバ-ン、エディト・ピアフ、ジャクリ-ン・ケネディなどのライト・レヴュ-、最近作は『マリリン・モンロ-の言葉』などで知られている。
田栗さんは、高名な翻訳家で、デイヴ・ペルザ-の『Itと呼ばれた子』、ジョン・バクスタ-の評伝『ウディ・アレン・バイオグラフィ-』、マイケル・オンダーチェの『名もなき人たちのテーブル』など。
私の講演のあと、出席者の質問でも、おふたりに発言していただいた。これも、私にとって大きな喜びになった。
残念なこともある。「土曜サロン」の当日、これも翻訳家の青木 悦子さんに再会できるはずだった。
実をいえば、この「土曜サロン」の集まりで私がレクチュアする話は青木 悦子さんが打診してきたのだった。私が、「土曜サロン」に出席するときめたのは、悦っちゃんに再会できることを、ひそかに楽しみにしたからだった。その青木 悦子が欠席という。ほんとうに残念なことだった。
さいわい、なんとか話を終えて、いろいろな質問にも答えることができたのだった。
ただし、全体に蕪雑なレクチュアに終始したことをお詫びしたい。わざわざ足を運んでくださった方々に、ろくな話もできなかったが、熱心に聞いて頂いたことに感激している。これが、私の最初にして最後のレクチュアになったが、生涯の思い出を頂戴したと思っている。
この3月18日(土)は、私にとって忘れることのできない一日になったのだった。
じつは、私のブログ、アクセス数が10万に達した日、そして私としては生涯最後となる「土曜サロン」の集まりに出席した日、私は、おのれの人生でもっとも過酷な時間のさなかにあった。
付添いのおふたりにも伏せていたが、この日のできごとのすべてが、夢のようだった。それもひどく悪い夢で、レクチュアしながらも、おそろしい、まがまがしい夢にうなされているようだった。
講演を終わって、「推理作家協会」の作家たち、事務局のかたがたの見送りを受けながら、黄昏の表参道を往来する車を眺めながら、私はしばらく佇ちつくした。もう何も考えられなくなった私は、自分を待っている運命の前に、おののきながら立ちつくすよりほかなかった。
3月23日(木)、午後8時40分、妻の百合子が亡くなった。