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1941年の「奥様は顔が二つ」は、ガルボの最後の出演作品になった。喜劇作家のS・N・ベアマンが脚色したもので、ルイ・ジュヴェ主演の「二つの顔」(46年)、イタリアの「ジョニーの事情」(ロベルト・ベニーニ監督/92年)などの先蹤をなす映画と見ていい。だが、MGMはガルボの給与を半減した。
「戦後」のガルボについては、ほとんど知られていない。
1945~46年に、サイレント映画の「肉体と悪魔」のリメイクを考えていたらしい。セルズニックは、フランスの名女優、サラ・ベルナールの生涯を映画化しようと考えたが、これも挫折した。1年後、ジョージ・キューカーは、当時、若い俳優として頭角をあらわしていたローレンス・オリヴィエとガルボで、作家、ジョルジュ・サンドの伝記映画を企画した。これも、企画だけでつぶれた。
1949年、マックス・オフュールスが企画した「ランジェ侯爵夫人」の企画につよい関心をもった。これは、アメリカ/イタリア合作版だった。

私の評伝、「ルイ・ジュヴェ」の読者なら、マックス・オフュールスについて、ある程度まで知っているかも知れない。しかも、「ランジェ侯爵夫人」は、戦時中のフランスで、ジャン・ジロドゥーが脚色し、名女優、エドウィージュ・フゥイエールの主演で制作されている。これも、ガルボは実現できなかった。

1951年、プロデューサー、ドア・シャリーは、ジョン・ガンサーのドキュメント、「死よ奢るなかれ」の映画化を考えた。「戦後」の日本でも、ベストセラーになった。これも、ガルボは出演を断っている。

1951年。フランスの俳優、ピエール・ブラッスールは、ルイ・ジュヴェの演出で、サルトルの「悪魔と神」に出た。つぎの舞台に、バヴァリアの狂王、ルードヴィヒ2世を描いた戯曲を上演しようとして、相手役になんとグレタ・ガルボを考えて出演を依頼した。すでに映画から引退し、舞台に出る気のなかったガルボは、すぐにハリウッドから電報で断った。
このテーマは、のちにイタリアのルキノ・ヴィスコンテイ監督が映画化する。「ルードウィヒ 神々の黄昏」である。
グレタ・ガルボがロミー・シュナイダーの「役」を演じていたらどうだったろうか。

「戦後」のガルボは、旧知のジョージ・キューカー演出で、「従妹レイチェル」の映画化を、と考えたらしい。原作は戦後のベストセラーで、ハートウォーミングな小説だった。ガルボ自身が提案したものだったが、どういう心境の変化か、翌日、電話で、

あたしには、とてもできそうもないわ。もう、あたらしい映画を作る勇気がなく
なっているのよ。
と断っている。