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ガルボは、バーナード・ショーの「聖女ジョーン」を演じたがっていた。(ドイツの名女優、エリザベート・ベルクナーが舞台で演じていたし、フランス映画ではこれも名女優だったファルコネッティが、火刑にされるジャンヌを演じていた。
しかし、MGMが、ガルボに演じさせたのは「マタ・ハリ」だった。「マタ・ハリ」は、世界大戦中に、ドイツ側に情報を流したオランダ女性(インドネシア系)で、美貌のヴァンパイアーだった。ドイツ側に貴重な軍事情報を流したが、最後に逮捕され、銃殺された。
ガルボとしては、「マタ・ハリ」に出ることを希望してはいなかった。当時、めずらしくインタヴューに答えて、
スクリーンのヴァンパイアーなんて、もう大笑いするしかないわね。
「マタ・ハリ」は、ディートリヒの「間諜X廿七」(ジョゼフ・フォン・スタンバーグ監督)に対抗して作られたスパイ映画だが、映画としては、ジョージ・フィッツモーリスの演出より、スタンバーグ監督のほうがすぐれている。女優としては、ディートリヒよりガルボのほうがいい。
トーキーの初期に、「西部戦線異常なし」(ルイス・マイルストーン監督)、「暁の偵察」(ハワード・ホークス監督)、「旅路の終り」(ジェームズ・ホエール監督)、「七日間の休暇」(リチャード・ウォーレス監督)、「戦争と貞操」(ジョージ・キューカー監督)といった戦争映画があらわれる。
戦争の悲惨に対する反省と、戦争によってもたらされたヒロイズム讃歌が、これらの映画に反映している。ヴィクトリア時代の世代の無知が原因で、大量殺戮の戦争に突入した。「間諜X廿七」や「マタ・ハリ」は、女性がエロスを手段として、こうした戦争の背後で情報を獲得しようとするあたらしい闘争とさえ見えた。
ガルボはディートリヒとともに、「間諜X廿七」や「マタ・ハリ」で、既成の伝統に対する反逆者、あたらしいファッションやセクシュアリテイーの抑圧をはねのけようとする女を体現していた、と見ていい。
当時、MGMは、週給7000ドルで契約していたが、ガルボは1万ドルを要求した。この交渉でモメたガルボは、ヨーロッパに旅行した。MGMはガルボの要求をいれて、会社側として、サマセット・モームの作品、「彩られし女性」の映画化、ガルボ側の希望で「クリスチナ女王」を撮ることで決着した。さらに、モームがガルボのために、短編をいくつか書くと発表された。(残念ながら実現しなかった。)
私たちが「クリスチナ女王」(ルーベン・マムーリアン監督)を見ることができたのは、1968年になってからだった。それも、宮廷の恋愛をあつかつたものとして、日本の皇室の尊厳にかかわるという理由で、戦前の検閲でズタズタにされたヴァージョンだった。おなじ時期に「椿姫」も公開されたが、これまた戦前の検閲でズタズタにされたままの映画だった。
いまさらながら、戦前の検閲の陋劣、愚頓、横暴に対してはげしい怒りをおぼえるのだが、私たちは今もって本当のガルボを見ることがないのである。
MGMの幹部は、グレタ・ガルボに対して、いつも冷淡な態度をとっていた。「彩られし女性」が、ガルボの映画としては期待はずれの成績だったため、たちまち追放しようと画策しはじめた。
ところが、イギリスでは、最優秀女優の人気投票で、総投票数の43%が、「クリスチナ女王」のグレタ・ガルボに集中した。これほど多数の支持を得た例はない。ガルボの人気は空前のものだった。
MGMは、最終的にガルボが年1本撮影するという条件で、25万ドルで契約した。ただし、これにもウラがある。ガルボを専属にしておくことで、他社の作品に出演させることはないし、映画化する作品も会社側の提示するものにかぎられる。つまり、女優としてのガルボの人間的な、芸術的な成熟や深化を制約できることになった。
「アンナ・カレーニナ」、「椿姫」で、ニューヨーク批評家賞(最優秀女優賞)をつづけてとったが、アカデミー賞は、ルイーゼ・レイナーに奪われている。
1938年、皇帝ナポレオンと、ポーランドの貴族夫人、マリー・ワレウスカの悲恋を描いた「征服者」に出た。この映画は制作費がふくらみ過ぎて、利益を回収できなかったため、ガルボは窮地に立たされた。MGMはガルボの減給をほのめかしたり、幹部からは引退を勧告するような動きも出てきた。
1939年、フランスの喜劇「トヴァリッチ」(ロシア語の「タワリシチ」)に出たが、この映画もあまり成功しなかった。
おなじ年に、ブロードウェイでヒットした喜劇、「白痴のよろこび」(シャーウッド・アンダースン原作)にも出演を希望したが、これもノーマ・シァラーにとられてしまった。(この映画でクラーク・ゲーブルが、生涯ただ一度、歌って踊っている。この映画に主演したノーマ・シァラーなど、もう誰ひとりおぼえてもいないだろう。)
ガルボの不運はつづく。
ガルボは自分の出たいと思う映画に出ることができなかったスターだった。