【5】
モーリッツ・スティルレルはハリウッドでは成功せず、スウェーデンに帰った。スティルレルが帰ったあと、ハリウッドに残ったガルボは「私の人生に起きた、いいことはすべて、この人のおかげです」と語っている。その後のガルボは、スティルレルに関してまったく沈黙している。
ガルボは「イバニエスの激流」(1926年)で登場し、「肉体と悪魔」(1927年)で世界的に知られる。
「肉体と悪魔」で、ジョン・ギルバートと共演する。この映画のガルボは、それまでのハリウッド映画に見なかった、強烈なエロティシズムを体現していた。
トーキーの到来とともに、多数のサイレント映画スターが没落する。ジョン・ギルバートもその一人。だが、ガルボは、いわゆるハリウッド黄金期(Golden Years)に、映画スターの女王として君臨した。
1930年、ガルボ、24歳。
すでに、神秘につつまれた伝説になっている。
サラ・ベルナールは、「コメディー・フランセーズ」で、ラシーヌの「フェードル」を演じた。二五歳を過ぎるか過ぎないかで、「フェードル」を演じる。女優の生涯でこれ以上の何が望めるだろうか。「私に欠けているものは何ひとつありませんでした」という。
ガルボも、サラとおなじ思いだったかも知れない。
MGMの上層部は、オフ・スクリーンのガルボが、ジャーナリズムにまったく姿をみせず、徹底的な沈黙をまもりつづけていることをよろこんでいた。
みなさま。あいかわらず、何も申しあげることがございません。
当時のグレタ・ガルボの記事は、ほかのMGMのスター全部をあわせた以上の記事が出た。
1932年、アメリカは大不況にあえいでいた。ニューヨークの映画館は、記録的な不入りにあえいでいた。半期で、観客を動員できたのは、ガルボの「マタ・ハリ」、ジョン・バリモアの「アルセーヌ・ルパン」、ベラ・ルゴシの「モルグ街の殺人」、そして、ガルボが出た「グランド・ホテル」だけだった。
翌年(1933年)、ガルボは「クリスチナ女王」の相手役に、トーキーの到来で落魄したジョン・ギルバートを招いた。この映画の撮影中、ジョン・ギルバートはガルボにつきまとったが、後年のガルボは、ジョン・ギルバートとは、まったく恋愛関係がなかったと否定している。
その後のガルボは、ジョン・ギルバートのことだけではなく、身辺すべてに関して何も語らなくなった。「ひたすら沈黙のスウェーデン女」と呼ばれた。インタヴューさえ拒絶しつづけた。