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【3】

戦後、日本人が見たはじめてのアメリカ映画は、「ユーコンの叫び」(リパブリック/1945年12月公開)だが、戦前に輸入されたままオクラ入りになっていたB級の作品だった。
それでも、アメリカ人を理解しようとする観客が押し寄せた。

1946年2月、占領軍ははじめてアメリカ映画の輸入を許可した。
ディアナ・ダービン主演の「春の序曲」と、グリア・ガーソン主演の「キューリー夫人」が公開されて、日本の観客はハリウッド映画に魅了された。

「春の序曲」や、「キューリー夫人」よりも、ずっと先の、敗戦直後に私が「喜びなき街」を見たのはまったくの偶然だった。

戦後の少年がはじめて見た外国映画が「喜びなき街」だったことは、その後の私に大きな作用をおよぼしたような気がする。

戦争は終わったが、東京の情景は惨憺たるものだった。「日劇」は巨大な廃墟だったし、地下の日劇小劇場は、セメントが剥がれて土がむき出しになっていた。「有楽座」は、焼けただれたままで、鉄骨の残骸をさらしていた。
9月に占領軍が上陸した。これからどうなるのかまったくわからない「戦後」の東京で、痩せこけた隠花植物たちが、焼け跡のビルに芽吹きはじめたが、あくどく口紅をぬったその口辺にうかぶ笑みは、みじめな民衆を嘲笑するかのようだった。私は第一次大戦の「戦後」の、ドイツの「喜びなき街」の惨憺たる現実を、そのまま東京の「現実」に重ねあわせたのだった。

「喜びなき街」のラスト・シーン。ガルボではない若い娘を見た瞬間、あ、と思った。どこかで見たことがある。まるでデジャヴュのように。

白いワンピースを身につけてスクリーンを左から右に横切った若い娘。この若い娘を見た瞬間、まだ無名のマルレーネ・ディートリヒではないか、と思った。当時の私は戦前の映画雑誌を読みふけっていたが、ディートリヒの映画を見たこともなかった。それなのに、わずか1カットながら、まったく無名のディートリヒがこの「喜びなき街」のラスト・シーンに出ている、と思った。むろん、この娘を、ディートリヒと確信したわけではなかった。ガルボはもとより、ディートリヒの映画も見たことがなかったのだから。

その後、長いこと、ディートリヒがこの映画に出ていたのではないか、という疑問をもちつづけた。その一方で、おそらく私の錯覚だろうと思った。あの若い娘はディートリヒではない。たまたま撮影所にいて、映画のワン・カットに駆り出されたエキストラで、無名のまま消えてしまった若い娘ではなかったか。

ディートリヒ自身は、終生この映画については語っていない。

それでもこの疑問は、私の内部に沈殿した。

はるか後年、「ドイツ映画史」を調べていて、私は思わず目を疑った。自分の推測が当たっていたことを知った。

その頃、エフレイム・カッツの「映画百科」のガルボの項目にも、her rival-to-be,Marlene Dietrich,appeared as an extra.という記述を見つけた。

私は50年もかかって、やっと疑問をはらすことができたのだった。