最近の私は、ほとんど毎日のように、映画を見ている。もう少し正確には、しばらく前に見た映画をDVDで見ている、または見直している。
たとえば――フランス映画だが、実質的にはロシア映画の「コンサート」(ラデイ・ミヘイエレアニュ監督)とか、「アデルの恋の物語」(フランソワ・トリュフォー監督)など。
もっと古い映画も見ている。
たとえば、「マイヤーリング」(アナトール・リトヴァク監督)。これは、アナトール・リトヴァクがシャルル・ボワイエ、ダニエル・ダリューで撮った「うたかたの恋」のリメイク。おなじ映画監督が、メル・ファーラー、オードリー・ヘップバーンで撮っている。「ローマの休日」で登場したオードリーが、4年後にこの映画に出ているのだが、「ローマの休日」で見せた美しさはまるで消えている。これは驚くべきもので、私の「女優」観に大きく影響したのだった。
その後、メル・ファーラーと離婚したオードリー・ヘップバーンは、普通のファンや映画批評家にとっては、「ペルソナ・グラティッシマ」の女優に変化してゆく。
私は、昔、試写室や映画館で見ただけで、二度と見る機会もなく、いつしか忘れてしまった映画を見ては、かつての私がその映画に何を見たのか、あるいは、何を見なかったのか、あらためて考えるのだった。これも、老措大の楽しみというべきか。
要するに手あたり次第にDVDを見ているだけ。ただの気ばらしといっていいのだが、若い頃に見た映画を老いさらばえた私がどう見るか。そんな興味がある。
マルセル・カルネの「ジェニーの家」を見たのは、戦後まもなくのことだった。当時の私は、30年代のパリの風俗などまったく知らなかったが、今の私は、ある程度(あるいは、かなりの程度)まで知っている。そういう目で見ると、あらためて、30年代のエロティックな風俗も理解できるし、女優のフランソワーズ・ロゼェの「演技」も、20代の私よりはずっとよくわかる。同時に、20代の私は何も見ていなかったなあ、忸怩たる思いがある。
そのくせ、ロゼェほどの「大女優」も、マルセル・カルネの映画では、この程度の「芝居」しか見せなかったのか、という驚きもあった。
昔の映画を見ることは――そのまま、その映画の再評価と、若き日の中田 耕治と、老いぼれた中田 耕治のアタマと心情の比較になる。これが、けっこうおもしろい。(笑)
なぜ、「マイヤーリング」をとりあげたのか。じつは、私なりの理由がある。山口 路子は『オ-ドリ-・ヘップバ-ンの言葉』で、この映画にほとんどふれていない。なぜだろう、と思ったから。
「ジェニーの家」をとりあげたのも、おなじような理由からで、筒井 康隆の『不良少年の映画史」(PART 1)で、戦後、「ジェニーの家」を見ていない、と書いていたので。
私は、人が見ていない映画を見てうれしがるほど狭量ではないが、人が見なかった映画と聞くと、どうして見なかったのだろう、などと考えてしまう。
ともあれ、昔の映画を見るのは老後の楽しみだが、ときにはAVだって見ることにしている。たまに傑作にもぶつかる。
植草 甚一さんがいっていたっけ。
「中田さん、ほんとうにいいポルノなんて、25本に1本ですよ」
今の私には、そんなことばさえなつかしい。