ある日、外出しようとして、門扉に手をかけていた。
近くの幼稚園の子どもたちが、若い先生3人に引率されて、我が家の前を通りかかった。公園に行く途中だろう。30人ばかりの幼児たちなので、若い女の先生が3人で引率している。
幼児たちはお互いに手をとりあって、楽しそうに歩いている。先頭に立った先生が、私の前にさしかかったとき、子どもたちにいいきかせるように、
「お早うございます」と声をかけた。これも情操教育なのだろう。
幼い子どもたちも、くちぐちに「お早うございます」と声をかけてゆく。
知らない子どもたちばかりだが、ご近所の誼みで声をかけてくれるのだった。
私もこれに答えて、「お早うございます」と声をかけてやる。これも、なかなか楽しい。まだ、ことばも達者でない、5,6歳の幼児が、たどたどしい口で、老人に声をかけてくれるのだから。
最後の子どもの列になった。
ひとりの女の子が、ちょっと立ちどまると、まじまじと私を見て、
「キタナイオジサン」
といった。
私は笑った。
この女の子は、ただ一言にして私の「現在」をとらえている。これまで、いろいろな批評家が、私をいろいろと批評したが、この女の子ほど、端的、かつ直截に私の本質をとらえた批評はない。天真爛漫にして、寸鉄人を指す批評であった。
たしかに私は、もはや「キタナイオジサン」以外の何者でもない。