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      【48】

真一郎さんは私より先輩だが、私の親友、小川 茂久が真一郎さんと親しかったせいもあって、少年時代から何度も会う機会があった。おこがましいいいかただが――彼の該博な知識には及びもつかないが、私は文学的にいくらか近い立場に立っていたような気もする。
私と真一郎さんは資質も才能もまるで違う。それでも、少年時代からの親しみはかわらなかった。「近代文学」のなかにも、私を中村 真一郎のエピゴーネンと見ていた人もいた。一時はまったく交渉がなくなったが、ある時期から、真一郎さんに口をきいてもらえるようになった。苦労人の小川 茂久がはからってくれたらしい。
「秩序」の同人たちが、正月に真一郎さんのご自宅に集まったとき、私も小川 茂久といっしょに伺候した。
このとき、北 杜夫に紹介されたが、この席で、若い評論家がはげしい口論をはじめた。菅野 昭正がしきりに仲裁したが、西尾 幹二が退席した。このとき、私とすれ違いざま、西尾が自分にいい聞かせるようにつぶやいた。
「二度とこんなところにくるものか」
かつて「近代文学」を脱退した中村 真一郎も、おなじことばを自分にいい聞かせたのではないか、ふとそんなことを考えた。

晩年の中村 真一郎に会う機会はなかったが、80~90年代の真一郎さんは、私を相手に、いつもエロティックな話ばかりするのだった。私が、エロスについて書いたり、鞭打ちという行為について、私なりのモノグラフィーを書いたりしたからだろうと思う。
しかし、私の知識など、真一郎さんにおよぶはずもない。
ただ、中村 真一郎が、日本でもめずらしい「タンペラマン・アムルー」(色好み)の作家だということはよくわかった。
2000年、私は「ルイ・ジュヴェ」という評伝を書いた。この本のオビは、真一郎さんにお願いする予定だった。
この作品を書きあげた翌日、小川 茂久は亡くなった。その後、「ルイ・ジュヴェ」を短くしたり、また少し補ったり、つまらない作業に手間どっているうちに、真一郎さんも亡くなった。

その中村 真一郎が、こんなことを書いている。

二十歳後半から三十歳半ば頃までの私は、石川(淳)さんにバカ扱いされていた
気配がある。

これを読んで、思わず笑ってしまった。このいいかたにしたがえば、石川 淳の眼中に私など存在もしなかったはずである。
逆に、私のほうは石川 淳の「渡辺 崋山」、「鴎外大概」などを非常な傑作と見るかわり、小説にほとんど関心がない。
それでいいのだ。死んでしまえば、どうせお互いさまではないか。