【47】
さて、この回想もそろそろ切りあげなければならない。
1948年の春、私は安部君といっしょに、東大で講演をした。
これは、「近代文学」が企画した講演会で、三四郎池に近い教室で、「近代文学」の同人たちがそれぞれ1回づつレクチュアした。
ほかの人たちの講演については知らない。私は、埴谷 雄高から講演に出てくれといわれて、すぐに引き受けただけのことだった。安部君の前座ぐらいなら、私でもつとまるだろう。
教室は満員だった。
はじめて不特定多数の人々の前で話をしたのだが、さいわいアガったりせずに、話ができた。安部君は、処女作が出版されたばかりで、注目されていた。テーマも、自作について自由に語るといったものだったが、大きな教室に学生がつめかけた。
安部君の話にはじめてカフカの名が出た。むろん、だれひとりカフカを知らなかったはずである。
べつに驚くほどのことではない。戦時中に出たカフカの翻訳は、わずか15部しか売れなかったという。私は、安部君のもっていたジッドと、私がもっていたカフカを交換したから、たまたまカフカを読んだにすぎない。
この講演で、私は、第一次大戦後にピランデッロのような劇作家が登場したことをあげて、戦後の私たちの芝居にも、ピランデッリスモのようなあたらしい演劇運動が起きるだろうという趣旨のことをしゃべった。むろん、これは希望的な観測で、はっきりした分析、推理をへた発言ではなかった。
(ただ、コポオ、ルイ・ジュヴェの名前をあげたはずである。少なくとも、ジュヴェの「俳優論」に対する関心は、この頃からはじまっていたと思う。)
この頃、はじめてサルトルが紹介されたが、誰も実際の作品を読んではいなかった。
この講演のあと、安部君は学生たちの集まる講堂につれて行ってくれたが、多数の学生たちが集まってさかんに議論していた。その中に、全学連の学生もいたし、ノン・ポリの学生もいた。この日の、あの教室の騒然とした喧騒は忘れられない。もう、何十年もたった今でも、あの教室に集まっていた若者たちの姿を思い出す。
「全学連」の武井 昭夫がいた。いいだ もも、小川 徹たちがいた。そして、松山 俊太郎も。そのなかに、木村 光一がいた。後年、「文学座」の演出家になった。
私はただひとり、この教室のこの人たちとなんの関係もなく立ちつくしていた。