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      【46】

当時、安部君には私以上に親しい友人が3人いた。

高谷 治。赤塚 徹。辰野君。

高谷君は、私とおなじように小柄だが、私と違って見るからに育ちのよさがわかるような若者だった。
私は彼がジャン・ジョーレスの「フランス革命史」をもっていることを知って、貸してもらったことがある。
全部で7冊ぐらいあったのだが、その1巻、2巻を借りて読んだ。フランス革命についての最初の関心はジャン・ジョーレスを読んだおかげだった。
しばらくして、私は肺結核がひどくなり、大宮から東京に出られなくなった。その結果、安部君に会う機会もなくなった。あいにく高谷君の住所を知らなかった。
高谷君に借りた本はそのままになってしまった。まことに恥ずべきことで、今でも後悔している。

赤塚 徹は画家志望で、安部君からその才能について何度も聞かされていた。
「世紀の会」は、小川町の赤塚君の書斎で最初の集合をもった。
赤塚君はまだ若いのに堂々たる恰幅で、寡黙な若者だった。「戦後」のあたらしい絵画はどうあるべきか、といった議論よりも、自分はどういう絵を描くべきかをじっくり考えているようだった。安部君の親友というだけで赤塚君に好意をもったが、肺結核が進行している状況では、彼と親しくなれなかった。

辰野君(失礼だが、お名前を失念した)は、フランス文学の辰野 隆先生の令息だが、文学に進まず、東大の薬学部に在籍していた。
私は辰野君と三四郎池のそばで、「世紀の会」のことで話しあったことがある。

私は、安部君の友人たちと、私の友人、小川 茂久、柾木 恭介たちを同人にした「集まり」のようなものをはじめるつもりだった。ところが、この計画は、すぐにもっと大きな活動に変化したのだった。

この時期、いよいよ「世紀」の会を発足させることになった。
はじめての会合は、神田小川町の赤塚君宅で行われた。
このときのメンバーは、安部 公房、中田 耕治、瀬木 慎一、いいだ もも、赤塚 徹、高谷 治。もうひとり、よく覚えていないのだが関根 弘ではない誰かが参加したのではなかったか。
私は安部君といっしょに人選にかかった。

いいだ ももの提案で、「世代」のメンバー全員が参加することになって、中村 稔、吉行 淳之介、椿 実、日高 晋、矢巻 一宏などが参加した。
多人数になったので、早急に大きな場所が必要になった。このとき、小川 徹の口ききで、内幸町のNHKの会議室が借りられることになって、初めての会合が行われた。
このとき、私が、もっとも驚かされたのは、三島 由紀夫と同期で、東大の法科在学中に「産別会議」の要職についたという、いいだ もも(宮本 治)だった。「世紀」の会をはじめて、毎回、たいへんな天才や秀才に会ってきたが、もっとも頭脳明晰な人物をあげるとすれば、躊躇なくいいだ ももをあげるだろう。当然、「世紀」の会のイニシアティヴをにぎったのも、いいだ ももだった。

美男をあげるとすれば、私は即座に、矢巻 一宏をあげる。
安部君ははじめて矢巻 一宏を見たとき、低い声で、
「あいつ、美男だなあ」
といった。
当時、成城高校生だったはずだか、ほんとうに匂やかな美少年だった。

矢巻 一宏は生涯、五つの出版社を起こしている。はるか後年、渋沢 龍彦を迎えて「血と薔薇」を出す。後年の私は矢巻君と内藤 三津子夫人と親しくなったのだった。
しかし、この時期、矢巻 一宏は作家をめざしていた。その処女作、「脱毛の秋」が、「世代」に発表されたとき、私たちはあたらしい作家が登場したと思ったものである。

NHKの会議室では、メンバー相互の交際をはかって、研究会をもつことになった。これは、「近代文学」の先輩たちの集まりを見ていた私が提案したもので、テキストをきめて、メンバーのひとりがテューターとして、基調のレクチュアを行う。
テキストは、野間 宏の「暗い絵」、テューターは日高 晋。つぎに花田 清輝の「復興期の精神」、「錯乱の論理」。このテューターは森本 哲郎。
この集まりで、吉行 淳之介はまったく発言しなかった。「原色の街」を書く前だったが、いつも飄々としている吉行 淳之介に私は注目していた。
「あいつ、どこかの作家の息子だってさ」
安部君が教えてくれた。
「ふ~ん。それじゃ、吉行エイスケだよ、きっと」
私は答えた。
「へぇえ。そんな作家がいるの」
「うん。新興芸術派のひとり。吉行なんて珍しい名前だから、たぶん、間違いないんじゃないかな」

この集まりも長くはつづかなかった。NHKから追い出されたのだった。
そこで、誰かが奔走して、新宿の近くのお屋敷の離れを借りることにしたのだった。
このときのテキストは、おぼえていない。テューターは、渡辺 恒雄。この名前に驚く人もいるかもしれない。
手席者は、安部 公房、中田 耕治、森本 哲郎、小川 徹、瀬木 慎一、そして、この回から私が招いた柾木 恭介が加わった。

この夏、安部 公房は、処女詩集「無名詩集」を出した。
出たばかりのガリ版の詩集だったが、私に一部贈ってくれた。私は、先輩たちから本をもらったとき、みんながサインしてくれたので、安部君にもすぐにサインをねだった。
安部君はしきりにテレながら、サインをしてくれた。

目上の人から、目下の人に、本を贈る場合はかまわないが、目上にあたる相手に本を贈るときは絶対に恵存と書いてはいけないとつたえた。誰かに聞いたことだった。そのときの安部君は、ちょっと驚いたような顔をした。

こうして「世紀」の会は発足したのだが、私の前途は、それほど明るいものではなかった。このときも、中村 真一郎の「禍(わざわい)は妄(みだり)に至らず」ということばを思い出した。

肺浸潤がひどくなってきたのだった。