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【45】

この頃の安部君と私は、何か書くとたちまち攻撃されたり、匿名で批判されたりしていた。私はいろいろな雑誌で叩かれつづけていた。あまり、悪口ばかり書かれるので、本屋に並ぶ雑誌を手にとるのもいやになるくらいだった。

そんななかで、たった2,3行だったが、安部君と私の名を挙げて、褒めてくれた人がいる。
椎名 麟三だった。

「近代文学」が、同人を拡大したのは、1947年の初夏だった。
このとき、新同人になったのは、久保田 正文、花田 清輝、平田 次三郎、大西 巨人、野間 宏、そして「マチネ・ポエチック」の福永 武彦、加藤 周一、中村 真一郎だった。

すでにふれたように、加藤 周一、中村 真一郎は、山室 静のすすめで「近代文学」の集まりに出席していた。福永 武彦は、結核の療養のためサナトリウムに入っていたので、「近代文学」の集まりには一度も出席しなかった。

ところが、「マチネ・ポエチック」の人々が、「近代文学」の同人に参加したばかりの1947年7月号に、加藤 周一の「IN EGOISTUS」が発表された。
加藤 周一は、中野 重治の「批評の人間性」に端を発した中野vs荒・平野論争に言及して、荒 正人の小市民的エゴイズムを否定し、中野 重治の荒・平野批判を正当とするという論旨だった。

荒 正人がこれに対して、激烈な反論を書いた。その直後、中村 真一郎と加藤 周一が、「近代文学」に乗り込んできた。
たまたま、平田 次三郎と、編集担当の原 道久、安部 公房、私が居合わせたのだが、中村 真一郎は私たちに目もくれなかった。血相が変わっていた。
私は安部 公房に目配せした。
安部 公房もすぐに了解して、ふたりで事務室を出た。
「真ちゃん、すごい顔をしていたなあ」
「とてもただごとじゃすまないね」
私たちの想像は当たった。「マチネ・ポエチック」の3人は、この日、「近代文学」の同人を脱退したのだった。

近くの喫茶店に逃げ込んだ安部 公房と私は、「マチネ・ポエチック」の脱退は「近代文学」に激震をもたらすだろうこと、早く「世紀」の会を立ちあげようという相談をした。だから「世紀」の会を考えるようになった理由は、はじめはこんな単純な理由からだった。

「マチネ・ポエチック」の脱退は、私にも影響した。私は荒 正人と親しかったため、中村 真一郎から忌避されたのだった。その後、数年、私は中村 真一郎と会うことがなくなった。
真一郎さんと口をきくようになったのは、私が小説を書くようになってからだった。