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【43】

もう一つ、思い出したことがある。
ある日、私は「中国文学」の千田 九一さんのご自宅に呼ばれた。

この集まりは「近代文学」の懇親会といったもので、あたらしく同人になった人々の顔あわせを目的としていたものと思われる。
安部 公房と私もいっしょに出た。この席で、当時としては貴重品だったニワトリの水炊きがふるまわれた。酒、ビールなども出た。
戦後の食料難についてはすでにふれたが、このときの集まりで、私は戦後はじめてトリ鍋をあじわった。その後、トリ料理も食べられるようになったが、千田 九一さんの集まりで出されたトリ料理ほどおいしく頂いたご馳走はない。

この集まりに中村 真一郎も出席した。

集まった人たちは、いずれも名だたる文学者なので、この席でも侃々諤々の議論が交わされたが、鍋料理が目的だったので、楽しい気分があふれていた。
ふと、真一郎さんの靴下に目をとめた。靴下の片っぽに大きな穴が開いていた。穴というより、半分破れていて、まるで靴下の用をなさないほどだった。
私は目をそらせた。
小心な私は、文学者の集まる席なら、前の晩に自分で靴下の破れをつくろったに違いない。
しかし、ダンデイな中村 真一郎は、自分の貧しさをすこしも恥じていない。このとき、私は、戦後派作家として注目されている中村 真一郎が、実生活ではけっして恵まれていないらしいことに気がついたのだった。

大きな穴が開いた靴下など、まったく気にとめずに、さかんに文学論議をつづけている中村 真一郎に敬意をもった。この思いは――自分もいつか、少しでも世間に通用する作品を書きたいという思いにつながっていたはずである。

作家として登場したばかりの中村 真一郎が、経済的にはそれほど恵まれていなかったことは、別のことからも想像できた。

ある日、真一郎さんは私をつかまえて、
「ねえ、中田君、さっき数えてみたら、ボクの原稿を載せた雑誌、30もつぶれているよ」
といった。
「ふーん、そんなにつぶれましたか」
心のなかで私も数えてみた。私に原稿を依頼した雑誌、原稿は載せたものの原稿料を払ってくれなかった雑誌、三号雑誌で消えてしまった雑誌は――15もあった。
真一郎さんの場合は、短編もふくめて30編も原稿を書いた雑誌が潰れている。枚数からして、私とは比較にならない。私が、そんな雑誌に書いたのは短いエッセイや雑文ばかりだった。それでも、私としては原稿料をアテにして書いたのだから打撃は大きかった。