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【42】

ある日、「近代文学」の集まりがあった。
この集まり(勉強会)で、安部 公房と私は、ある新人作家について、それぞれが批評することになった。対象は三島 由紀夫だった。
場所はよく覚えていないのだが、おそらく中野の「モナミ」だったと思う。
このレクチュアは、(あとで思い当たったのだが)「近代文学」の第二次同人拡大が問題になる前で、安部君は別として、中田 耕治を同人にするかどうか、いわば面接試験めいたものだったのではなかったか。
ゲストは三島 由紀夫。「近代文学」側は、平野 謙、小田切 秀雄が欠席。ほかの出席者に、中村 真一郎、椎名 麟三、野間 宏など。花田 清輝はいなかった。

最初に私が、短編集の「夜の支度」について報告した。
つづいて、安倍 公房が「仮面の告白」を批評した。
(私の知るかぎりでは、その後の「世紀」で、安倍 公房が三島 由紀夫をテーマにレクチュアしたことはない。「世紀」でもこうした勉強会をはじめたけれど。)

私も三島 由紀夫とは初対面だったが、当時の私は、性倒錯について、ホモセクシュアル、レズビアンについてなど何も知らない無知な若者だったから、この作家の内面にひそんでいる異常性を指摘するだけでせいいっぱいだった。
戦時中、中学生のとき「花ざかりの森」を読んだり、「日本浪漫派」の雑誌、「文芸文化」で三島 由紀夫の名を知ったが、このレクチュアでの私は、ただ、三島 由紀夫におけるロマン主義的な愛のナルティシズムといった問題をとりあげたにすぎない。

戦後すぐの時期、ゲイの男性は、異性愛社会のなかでうまく生きて行くためには、ホモセクシュアルである自分を隠すことが、いわば第二の天性のようになっていた。このことは、やや遅くなって、「劇作」の集まりで知りあった鈴木 八郎(完全なゲイだった)から教えられた。三島 由紀夫も、まだ、自分がホモセクシュアルであるという(文学的な)カミングアウトを試みたわけではない。
むろん三島は私の稚拙な批評など歯牙にもかけなかった。

このときの安倍君の批評はじつにみごとなものだった。私は、安部君は、小説よりも批評を書いたほうがいいのではないか、と思ったほどだった。
三島 由紀夫も安倍君の批評に感心したようだった。

安倍君の批評に注目した人がいる。中村 真一郎だった。

この集まりが終ったあと、中村 真一郎が、安部君と私を呼びとめて、コーヒーをおごってくれた。このときの話題は、もっぱら安倍君の批評に対する称賛だった。真一郎さんも三島 由紀夫の作品にふれたが、むしろ安倍君の批評について批評したのだった。批評家が他人の批評を批評するときほど批評家であることはない。
真一郎さんは、まだ作家としての安部 公房を知らなかったはずで、まず卓抜な批評家としての安部 公房に驚嘆したようだった。
このときの話はもっぱら安部 公房の批評と、三島 由紀夫の短編にかぎられたが、中村 真一郎は、私に向かって、
「きみ、フランス語、勉強してる?」
といった。

私は、英語の勉強をはじめていたが、一方でフランス語の勉強もはじめていた。むろん、誰にも口外したことはない。たぶん、小川 茂久から聞いたのだろう。

小川 茂久は、私と椎野の共通の友人だったが、この頃から真一郎さんと親しくなっていた。当時まだ序章しか発表されていなかった「死の影の下に」の全編を清書したのも小川 茂久だった。
私はたしかにフランス語の勉強もはじめていたので、
「とても半年というわけにはいきませんが」
私は答えた。いつか、真一郎さんが平野さんに答えたことばを受けたつもりだった。
真一郎さんは、すぐに私の答えに隠された意味を読みとって、いたずらっぽくニヤッとしてみせた。

この研究会で、三島 由紀夫を知ったことから、私は「世紀」の発足に当たって、三島 由紀夫にも参加を呼びかけたのだった。(「世紀」の会が発足するに当たって、参加したメンバーの名を記録したが、三島 由紀夫の名は22番目あたりに載っているはずである。)