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T・Kさんから質問をうけて、いろいろなことを思い出した。とりとめもない思い出ばかりだが、こういう機会でもなければ、思い出すはずもなかった。

その後、T・Kさんからメールがあった。

中村真一郎氏でしたか!

戦後文学に興味がありまして、氏の著作も「死の影の下に」五部作、「四季」四部作を中心に読んだことがあります。
中村氏は中年から晩年にかけて頼山陽や江戸漢詩に関する評伝・研究をものしましたが、なるほど、祖父が漢学者だったとは。なっとくです。
氏の神経症とはべつに、祖父から受けた漢学の素養が評伝・研究に取りくむきっかけとしてあったのですね。

このメールのおかげで、またしても別のことを思い出した。戦後、いち早く文学者として安部 公房を認めたのは、誰あろう中村 真一郎だった。
これまた説明が必要になる。

「近代文学」の人々は、1947年春から、月に1度、勉強会のような集まりをもつようになっていた。出席者は、多いときで15名程度。したがって、この集まりの場所は「文化学院」の事務所ではなく、いろいろと変わったが、1948年には中野の「モナミ」がよく使われた。
同人たちがゲストを招いて、レクチュアを聞く。それだけの集まりだったが、そのゲストには、武谷 三男、矢内原 伊作、花田 清輝、赤岩 栄、椎名 麟三、竹内 好といった人々が選ばれた。テーマは、それぞれのゲストによって違ったが、レクチュアのあと、「近代文学」の同人たちとゲストの活発な質問や雑談を聞くのが楽しかった。

この集まりに、私は安部公房といっしょにかかさず出席した。私の頭の程度ではゲストの話について行くのもやっとだったが、たとえば、戦時中、仁科博士を中心にして核融合の研究に従事していた武谷 三男に対して、荒 正人が専門的な質問をつづけた。それに対して武谷 三男が丁寧に答えていたことを覚えている。ただし、その内容については、私は半分も理解できなかったのだからひどい話だが。

広島の被爆直後に、軍の命令で、急遽、東大の医学部ほかの優秀なメンバーが組織され、被爆直後のヒロシマに派遣された。治療よりも、被爆の実態調査、被傷の療法研究が目的で、加藤 周一は血液学関係の研究者として参加させられたという。戦後、この臨床体験について、加藤さん自身はまったく口外しなかったはずだが、このレクチュアでは安部君が医学関連の質問をした。純粋に医療関係の話だったので、これも私にはわからなかった。

「近代文学」の集まりは、毎回、知的に高度なレベルの話題ばかりで、ゲストと出席者たちが自由に質疑応答をする。ときに議論が白熱化して論争になることも多かった。

安部 公房はこの集まりではじめて花田 清輝に会ったのではないか。(そのあとすぐに「真善美社」に安部君と私が行ったのだと思う。このあたり、記憶がはっきりしない。)私が、覚えているのは――花田 清輝が、この集まりにひとりの青年をつれてきたことだった。ロシア語を勉強している労働者で、マヤコウスキーを読んでいると紹介した。
がっしりした体格で、寡黙だったが、たいへんな勉強家だった。
関根 弘という。

この勉強会で、佐々木 基一が熱心に関根 弘と話をしたが、並みいる先輩たちを相手に、もの怖じせずに論争に加わって、整然と切り返すようすに私は驚嘆した。佐々木 基一も、すぐに関根 弘の才能に感心したようだった。会が終わったあと、佐々木さんは、 「なんてったって、関根君は雑階級の出身だからなあ。かなわないよ」
といった。

このとき、私は関根 弘が寡黙なのは、何か理由があるのだろうと思った。その後、関根と親しくなってから、私が本所で大空襲をうけたと知って、一瞬、表情を変えた。
この大空襲で私は本所の業平橋に逃げた。今はスカイ・ツリーで知られている業平橋から押上、柳島も、阿鼻叫喚の地獄と化して、関根 弘はこの空襲で妹さんを失っている。
私がそのことを知ったのは、さらに後年のことだが、関根は、私が業平橋に逃げながら焼死しなかったことに驚きと、自分の体験した苦痛が一瞬、心をかすめたのだろう。

いずれにせよ、この集まりがきっかけで、私は安部 公房といっしょに関根 弘と親しくなった。その後、「世紀」の会を作ろうとしたとき、私がまっさきに協力をもとめたのは関根 弘だった。