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【39】

1947年は、まさに激烈なインフレーション、食料難の年だった。極度の電力不足、輸送力の欠乏で、日常的に停電、食料の欠配がつづく。紙不足で、新聞もタブロイド版1枚になった。
質のわるいセンカ紙のカストリ雑誌が氾濫した。田村 泰次郎の「肉体の門」が、大ヒットした。

「1945・文学的考察」が出版された頃だから、1947年春、おそらく2月から4月にかけてと思われるのだが、中村 真一郎は、「近代文学」の集まりのメンバーとして顔を出すようになっていた。福永 武彦は療養中だったためこの集まりには一度も出なかった。加藤 周一はときどきこの集まりに出た。
会のあとで本郷三丁目のバーに寄った。美人姉妹が経営していたバーで、駿河台下の「らんぼお」の美女と並んで、戦後文学者や、東大仏文の人達が集まっていた。ここで、花田 清輝と大論争になったことがある。埴谷 雄高、安部 公房がこの論争に加わった。

埴谷 雄高は、論争がはげしくなると、その間に割って入って、すかさず別の論点を投げ出す。だから、討論が堂々めぐりにならない。
さらに、加藤 周一と花田 清輝の論争がハイライトに達したと見るや、それまで遠く離れて論争を見ている美しいホステスたちに目をやる。まるで、格闘技のチャイムのような効果で、一時、休憩。(はるか後年、「茉莉花」でも何度かおなじようなシーンを見たことがある。)
この休憩のときに、埴谷さんは、安部 公房と私にむかって、
「なにしろ、カルテジアンとヴォルテリアンの論争だからね。レフェリーも必要だよ」
花田 清輝が薄笑いをうかべた。

この論争の直後に、埴谷 雄高が花田 清輝にあてて出したハガキがある。(これは偶然私が手に入れたもので、このブログに掲載しようと思ったが、残念ながら見つからなかった。)
そのハガキで、埴谷 雄高は、花田 清輝を「戦後」という時代にあらわれた「狂い咲き」と評していた。

こうした論争をそのまま速記して、いまの雑誌に発表したら「戦後」の貴重な記録になったに違いない。

戦後の混乱が続いていた。敗戦の年の暮、日比谷、上野の寒空に春をひさぐ女性の数は千数百人と伝えられたが、常習的な街娼は東京だけで約2万人と推定された。1945年は、さらに増大して、東京だけで約4万人とみられた。
1947年当時、街娼は10万に達したという。

人々の気分が焼け跡の瓦礫のように荒れていた時代。
作家の田中 英光は、毎日、カルモチンを50錠から100錠のあいだ、アドルムなら10錠のんでいたという。埴谷 雄高は、関根 弘といっしょに闇市で、焼酎を飲んでいたが、田中 英光がおなじ酒屋で、焼酎を飲みながら、アドルムを1個づつかじっているのを目撃した。田中 英光は、ロサンジェルス・オリンピックに出場したほどで、堂々たる体躯だったが、今でいうと、アッパーとダウナーをカクテルにするような危険な飲みかたをつづけ、やがて太宰 治の墓前で自殺した。
私の周囲でも、大学の同期生、1年先輩の文学青年で、自殺、あるいは自殺に近い死をとげたものが数名いる。

「戦後」すぐはそんな時代だった。