【37】
中野 重治が「展望」に書いた「批評の人間性」(1946年)は、荒 正人、平野 謙に対する最初のきびしい批判だった。
「展望」が本屋の店頭に並んだとき、私もすぐに読んだ。戦後の共産党の「近代文学」に対するはじめての激烈な批判だった。
私は「批評の人間性」を読んで、すぐに「近代文学社」に行った。
まだ午前中だったが、私が着いたときはすでに荒 正人がいて、大きな机に向かって原稿を書いていた。私が挨拶すると、荒 正人が顔をあげた。
顔が紅潮していた。日頃はおだやかで、分厚いメガネの奥から優しいまなざしを向ける荒 正人だったが、この日、私が見たのは怒髪天を衝くといった表情だった。
事務の藤崎 恵子が私に寄ってきて、
「耕さん、今日はたいへんよ。荒さん、わたしにも口もきかずに原稿を書いているの」
低声でいった。これが、荒・平野vs中野の論争の発端だった。
荒 正人が中野 重治に反駁して書いたエッセイに――中野 重治の有名な詩、「オ前ハ歌ウナ 赤マンマノ花ヲ」の詩を全部否定して、「オ前ハ歌ヘ 赤マンマノ花ヲ」というふうに書き直した少女のことが出てくる。この少女が、じつは戦時中の藤崎 恵子だった。
私が「近代文学社」に着いてから、5分ばかりたって、事務所のドアが勢いよく開けられて、平野 謙が足早に入ってきた。肩にインバネス、白足袋に草履。日頃、あまり編集会議にも出席しない平野 謙が、こんなに早い時間に「近代文学」に姿を見せるとはめずらしい。それに、平野 謙の和服姿をはじめて見た。
「おい、荒君、やられたなあ!」
平野 謙はまっすぐ荒 正人に寄って行った。つづいて、佐々木 基一、埴谷 雄高がやってきた。それぞれにこやかな表情だったが、追っとり刀で駆けつけたようなぴりぴりした空気が感じられた。本多 秋五が到着したのは、午後になってからだった。日頃、悠揚迫らぬ本多 秋五までが昂奮しているようだった。お互いに笑いあったり、真剣な表情で、今後の対応を話しあったりしていた。
私は同人たちが緊急にこの問題で話しあうものと察して、その場を離れた。
このとき、藤崎 恵子が近くの喫茶店に私をつれて行ってくれた。
荒・平野の反論を――こく簡単に要約すれば、戦前のプロレタリア文学、左翼の運動を支配した政治の優位性を是正して、人間性の回復をめざして文学の自律性を確立しようということだったと思われる。
こういう発言の背後には、戦前の文学者たちが、革命を目指しながら挫折し、「転向」しなければならなかった、挫折の経験があった。
これは「近代文学」の人々にとっては、ほぼ共通した理念で、戦後の文学は過去の左翼の運動から離れて、新しい現実を表現すべきものという立場だった。
これに対して、過去の左翼文学の代表的な作家だった中野 重治は、これを「近代主義」として批判し、共産主義的人間として、「戦後」にたちむかうべきとした。
中野 重治の「批評の人間性」は、これを契機に政治と文学をめぐるはげしい論争を起こした。私自身はこの論争にほとんど関係がない。そして、左翼系の雑誌から出発したため左翼系と見られていたらしいが、まったく左翼に関心がなかった。
ただし、「批評の人間性」を読んで、私は中野 重治に反感をもった。
はっきりいえば、その後、中野 重治にまったく関心をもたなくなった。戦時中に「歌のわかれ」や「空想家とシナリオ」などを読んで、ひそかな敬意をおぼえたが、この日から敬意も消えた。「批評の人間性」の冒頭の一行で、私が中野 重治に敵意をもった理由はわかるだろう。
この日、私はなんとなく、中村 真一郎の「禍(わざわい)は妄(みだり)に至らず」ということばを思い出していた。