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加藤 周一、福永 武彦、中村 真一郎たちが、「マチネ・ポエチック」同人として、創刊されたばかりの雑誌、「世代」に、時評「CAMERA EYES」を書きはじめたのは、1946年7月からだった。
「世代」に、若い作家、評論家がぞくぞくと登場する。
吉行 淳之介、いいだ もも、小川 徹たち。
占領軍の命令で検閲制度が撤廃されたため、映画にはじめてキス・シーンが登場する。
「ある夜の接吻」(大映)や、「歌麿をめぐる五人の女」(松竹)など。「匂やかな真白の肌を全裸に、さしうつむく女の柔肌を絵絹にして」という宣伝だけで、観衆はドキドキしたものだった。戦前、検閲でズタズタにされたフランス映画、「乙女の湖」がノーカットで上映された。私は、この映画に出ていたシモーヌ・シモン、その妹役だったオデット・ジョワイユーにあこがれた。
歌舞伎でも、舟橋 聖一の「滝口入道の恋」で、市川 猿之助(後の猿翁)と水谷 八重子(初代)が、雪の降る舞台で抱擁、接吻を見せた。
私が「時事新報」で匿名時評を書きはじめたのは、こうしたはげしい変化のなかで、「戦後」のインフレーションになんとか金を稼ぐ必要にせまられていたからだった。
敗戦直後に、眼のさめるようなファッションを着ていた女優、佐々木 瑛子についてはすでにふれた。もう一人――これも「戦後」に彗星のように登場しながら、悲劇的な死をとげた女優、堀 阿佐子を思い出す。このふたりの女優のことは、中村 真一郎、椎野 英之の思い出に重なってくる。
椎野の紹介で、真一郎さんと親しくなったが、彼の祖父が、漢学者だということは知らなかった。「近代文学」の集まりでも、中村真一郎自身が祖父のことを話題にしたことは一度もなかった。
ある日、雑談している途中で、何の話題だったか、
「禍(わざわい)は妄(みだり)に至らずだよ」
と、真一郎さんがいった。私はこの言葉は知っていたが、ただの諺(ことわざ)として知っていただけだった。ただ、そのときの私は、
「禍福はあざなえる縄のごとし、ですか」
と、言葉を返すと、
「福も徒(いたずら)に来らず。史記にある」
私の内面に、この真一郎さんのことばが残った。
これもすでに書いたが、私が「近代文学」の荒 正人を訪れたのは、1946年の3月か4月だった。そのときから、「近代文学」の人々に親炙することになったが、同人たち全員がそろうことはめったになかった。戦後の交通事情の悪化も影響していたと思われる。
小田切 秀雄は肺結核で療養中だったからいつも欠席していた。本多 秋五はまだ逗子に転居する前だったし、平野 謙は編集会議に出席しなかった。「島崎藤村」を書いたあと、文芸時評の原稿の注文が多くなって動きがとれなくなったせいだろう。
「近代文学」は、戦後という巨大な潮流の中心に位置して、ぞくぞくと登場した新人たちの集結する拠点になった。ほとんど無名に近い人が多かったが、思想的にも、理念的にも、それまでの文学と決別し、あらたな表現を獲得しようという激烈な意欲が渦巻いていた。
「近代文学」の編集室には、連日、つぎつぎに新しい文学者たちが姿を見せた。たとえば、「近代文学」の人たちは「黄蜂」という同人誌に発表された「暗い絵」という作品に注目していた。二週間ばかりたって、「暗い絵」の野間 宏が顔を見せたとき、佐々木 基一、荒 正人、埴谷 雄高、本多 秋五がどんなに歓迎したことか。
その直後に、こんどは中村真一郎があらわれた。長編、「死の影の下に」を書きはじめたばかりだった。中村真一郎は、佐々木 基一と親しかった。さらに、椎名 麟三が船山 馨とつれだって姿を見せた。やがて、青山 光二。島尾 敏雄が。
これらの人々はいずれも戦後の新文学を代表する作家になる。
「アプレゲール・クリアトリス」という言葉をはじめて使ったのは、中村真一郎だった。花田 清輝が、戦後の作家のシリーズを企画したとき、その場で、中村真一郎がさっと紙に書いた。花田さんは、それをとりあげたのだった。たまたま私は、その場に居合わせていたからよくおぼえている。その後、「アプレ」という言葉は、「戦後」の世相のなかで悪い意味を帯びた。もとより中村 真一郎の責任ではない。
野間 宏も、中村真一郎も、出発はまさに「戦後」作家の登場だったが、一方でははげしい攻撃にさらされたため、かならずしも順風満帆だったわけではない。野間 宏の「顔の中の赤い月」は共産党の御用批評家たちのはげしい批判を浴びたし、中村真一郎は作品を発表するたびに保守派の批評家の攻撃にさらされていた。
これは仄聞だが、荒 正人も「新日本文学」の会合の席上、共産党の徳田 球一書記長から名ざしでほとんど面罵されたという。