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     【35】

戦後の闇市では、金さえ出せばアルコール、タバコ、砂糖や食用油、何でも手に入るのだった。作家の久米 正雄は、軽井沢にもっていたログハウスふうの山荘を、わずか1キロの砂糖と交換したという。戦時中から、白砂糖など庶民は見たこともなかった。誰しも栄養不足で、私は、お茶の水駅の階段を、いっきに登れず、途中2度、立ちどまって、息をととのえなければ歩けなかった。

戦後、女たちは戦時中のモンペ姿から、とりどりの服を着るようになっていた。若い娘たちの服装は、今の感覚からすれば見すぼらしいワンピースが多かったが、それでもいっせいに明るくなってきた。
敗戦直後に、眼のさめるようなファッションを着ていた女優、佐々木 瑛子についてはすでにふれた。もう一人――これも「戦後」に彗星のように登場しながら、悲劇的な死をとげた女優、堀 阿佐子を思い出す。このふたりの女優のことは、中村 真一郎、椎野 英之の思い出に重なってくる。

時期的には、安部 公房に会うよりも前に、私は中村 真一郎と会っている。真一郎さんが作家になる直前だった。(ただし、中村 真一郎は、戦時中に、ネルヴァルを訳して出版している。したがって、私は、翻訳家としての中村 真一郎を知っていたことになる。)

ある日、私は椎野の家に遊びに行ったが、不在だった。
私は椎野の家族どうようだったので、椎野が不在でも、そのまま椎野の部屋にあがり込む習慣だった。
その日もいつも通り二階の部屋に入った。
八畳間の書院、壁いっぱいの書棚にぎっしり数百冊のフランス語の原書を見て、私は驚愕した。これが中村真一郎の蔵書だった。

この「回想」で、中村真一郎について書くつもりはなかったのだが、TKさんの質問から、いろいろと中村真一郎のことを思い出したのだった。