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     【34】

敗戦直後から冬にかけて、激烈なインフレーションと食料難が襲いかかってきた。

大森でも、敗戦の翌日には、駅前から入新井、いたるところに闇市ができた。この闇市に無数の人が押し寄せた。焼け跡にゴザやサビついたトタンをしいて、古新聞やボール凾の上に板戸を載せただけの場所に、戦時中にはまったく見なかった隠匿物資、配給ルートにはのらない食料、衣料品がならべられて、むせ返るような活気があふれていた。
二、三日もすると、この闇市も、ボロ布や、軍用毛布、テントの囲い、よしず張りなどが多くなって、ヤクザや第三国人が勝手に土地を占拠しはじめ、あっという間にバラック建ての店が出はじめる。

敗戦の翌朝、私は大混乱の東京から那須まで無賃旅行をした。その日の食料は、ひとつかみの大豆、おそらく30~40粒だけだった。母は那須に疎開していたが、敗戦を知ってすぐに東京に戻ったため、私とは行き違いになった。母は、埼玉県に疎開していた私の祖母の手づるで食料をかき集めて戻ってきた。

戦後の食料難の実態は、もはや想像もつかないだろう。
誰もが飢えていた。食料の配給も欠配がつづく。
敗戦直前までは、僅かな配給量にせよ、なんとか主食のサツマイモ、大豆などが配給されたが、敗戦後は、1本のサツマイモ、ひとにぎりの大豆さえも配給されなくなった。
ほかのものの配給もとまった。庶民は、食料をもとめて文字どおり狂奔していた。
9月に占領軍が進駐した直後に、アメリカから緊急にフーバー元大統領が来日して、救急の食料輸入が決定された。

こうして配給された食料も、食用油をとるために圧縮された大豆カスや、ムシが食い荒らしてツララのさがった赤ザラメ、乾燥サツマイモの粉末など。
量もわずかだった。
米のかわりに、砂まじりのカタクリコの配給もあった。一日ぶん、一人大さじ4杯程度。別の日に配給された赤ザラメは、一人5勺程度。ときには乾燥サツマイモの粉末など。
メリケン粉の配給もほとんどなくなった。やっと届いたメリケン粉も一週間分で、一人、1合程度。これを水で溶いて、掌でかためて、スイトンにする。味噌、醤油の配給がないため、塩水で煮ただけのまずいスイトンだった。食用油の配給はまったくなかった。
バター、チーズなど見たこともなかった。脱脂粉乳が配給されたが、ときには、圧縮して油をとったあとの脱脂大豆を乾燥した、牛、ブタのエサが配給された。

1945年12月、アメリカ兵が颯爽とジープをはしらせる町に、おびただしい数の浮浪者があふれていた。浮浪児もいた。そして、若いGI(アメリカ兵)めあてにあらわれたパンパンと呼ばれる街娼の群れ。大森の駅近くにバラックの映画館が急造されたが、そのすぐ前は京浜東北線の土手で雑草が生い茂っていた。そこに、若い女の子がつれ込まれて強姦された。女の子の悲鳴が聞こえたが、誰も助けようとしなかった。
これが敗戦国の現実だった。明日のことは誰にもわからない。それでも、奇妙な解放感がみなぎっていた。

男たちは、戦争の名残をとどめる国防色の軍服に、膏薬をはったようにツギのあたったズボン、復員土産の軍靴。「近代文学」ではじめて会った本多 秋五は、がっしりした軍靴をはいていた。
おなじように、野間 宏も軍靴をはいていた。安部君と私は、野間 宏を「ヘイタイサン」と呼んでいた。青山 光二に会ったのは、おなじ年の秋。青山 光二は、軍靴をはいていなかったが、私と安部 公房のあいだでは「スイヘイサン」だった。
むろん、武井 武雄のマンガをパロディーしたものだった。