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こんなとりとめもない、気ままな回想でも、熱心に読んでくださる奇特な読者がいる。
この回想(7月14日)について、思いがけない質問を受けた。
TKという方から、このブログに出てくる「祖父が漢学者だったという作家」は誰なのかという質問が寄せられた。
やはり、伏せなかったほうがよかったか。
私としては、安部 公房を中心に、いわば気楽に思い出話を書いているつもりだったので、この作家にふれる余裕はなかった。だから、わざと伏せたのだが――この作家の名を知りたいという読者がいる。そのときは、たいして深く考えもしなかったのだが、これがきっかけで、私の内部で戦後の文学者たちの思い出が思いがけない方向にひろがって行った。
荒、平野と思いだせば、ただちに埴谷、佐々木、あるいは、山室、本多というふうに、思い出は繋がってくる。そうなると、野間 宏、椎名 麟三、さらには梅崎 春生、船山 馨などもおもいだすことになる。
埴谷 雄高ふうにいえば「一人の名をあげれば一端を引かれた紐から他端がするする出てくるふうにかならず他のひとの名も一緒に出てくるところの珍しい三人組」、加藤 周一、福永 武彦、中村 真一郎なども。
祖父が漢学者だったという作家は誰なのか、という質問だけに答えておこう。
中村 真一郎である。
その中村 真一郎の名をあげただけで、作家自身のことばかりでなく、戦前の漢学の素養について、はては、作家と知りあった戦後、1945年8月から翌年にかけての私自身のことが奔流のように押し寄せてきた。
私は大森の生まれ。いわゆる海側で、昔は遊廓などがあった土地。作家の山口 瞳の生家や、「創価学会」のえらい人の生まれた場所のすぐ近く。
戦時中から戦後にかけて住んでいたのは、山王二丁目。
すぐお隣り、狭い坂のつき当たりに、寿岳 文章先生のお屋敷があった。ついでのことに、これも近くの馬込には、戦前、室生 犀星、尾崎 士郎、宇野 千代をはじめ、朝日 壮吉(吉田 甲子太郎)などの貧乏文士が集まって住んでいた。
犀星先生のご子息は、明治の「文芸科」で私と同期。作家、室生 朝子の弟にあたる。
TKさんのご質問から、戦後すぐの大森を思い出したのだった。