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     【32】

戦後、アメリカ映画がぞくぞくと公開されるようになった。私は、そのほとんどを見たのだが、イギリス映画の公開はずっと遅れてからで、フランス映画の公開は、さらにあとからだった。

私の年齢の少年が、戦後すぐにアメリカ文学を読んだはずはない。誰しもそう思うだろう。しかし、私は、立花 忠保さんの書棚で古い「スター」ヤ「キネマ旬報」を見つけて、ほとんど全部を読んでいた。だから、ここでも、私はめぐまれていたといっていい。

そのフランス映画で――これも戦後、もっとも早く公開された一つ、「カルメン」を、これも安部君といっしょに見に行った。
この映画は、クリスチャン・ジャック監督が、戦時中に撮ったものだが、ヨーロッパでドイツの敗色が濃くなって、上映を禁止されたものだった。
ヴィヴィアンヌ・ロマンス、ジャン・マレーが出ている。私は、フランス映画が好きだったし、妖艶なヴィヴィアンヌに惹かれたが、安部君は、つまらない映画だといっただけだった。そして、ジャン・マレーをまるで認めなかった。
私は、ジャン・コクトォが、戯曲や映画で、この俳優を使っていることを知っていたので、ジャン・マレーを擁護したが、安部君は、この俳優のために「カルメン」がおもしろくないものになったという。今の私は、あらためて安部君の判断のただしさをみとめる。
こういう話題から、私は、安部君が映画に絶大な興味をもっていることを知ったのだった。

1948年。稲垣 足穂がたてつづけにアメリカ映画を見たことを書いている。

先日、万世橋のシネマ・パレスへ久しぶりにはいった。「呪の家」といふお化け
のフィルムを観るためにであるが、四辺を領するくらがりと停滞した空気に不吉
なものを感じて、十分もたたぬうちに飛び出した。

私は、これだけの記述から、シネマ・パレスという映画館の、「くらがりと停滞した空気」を思い出した。「呪の家」は、レイ・ミランドとゲイル・ラッセルの主演だった。これと同時期に、「カサブランカ」が封切られて、これは映画史に残るような名作と見られているが、「呪の家」は、封切られてすぐに忘れられている。私はゲイル・ラッセルが好きだったので、このホラー映画もシネマ・パレスで見たのだった。

稲垣 足穂いわく、「人間的存在のかげろう性をまざまざと示す映画。生存の埒もなさを教えるフィルム。そしてまた偶然と荒唐無稽に何らかの見せかけの意味を付与する第六芸術。」

稲垣 足穂は映画がきらいだったらしく、映画をぼろくそに罵倒している。
それでも、ジュリアン・デュヴィヴィエの「肉体と幻想」のオープニングは気に入ったらしく、「このやうな点こそまさに二十世紀セルロイド芸術の独壇場であるとしないわけにいかない」という。デュヴィヴィエはこの後、「運命の饗宴」を撮るのだが、稲垣 足穂はおそらく見なかったにちがいない。

稲垣 足穂は、すぐにつづけて、

人間流転のはかなき様相を暗示して、特に興味をおぼえたのに、”Mr.Lordan
is Here”(幽霊紐育を歩く)があった。「天国は待ってくれる」といふ
通俗小説を脚色したもので、ジョーダン氏なる冥府の番頭の演技が秀逸だった。

という。
「幽霊紐育を歩く」は、1941年の作品。太平洋戦争勃発の直前に作られただけに、ストーリーに、よるべない感じというか、迫りくる戦争から目をそらすような 一種のエスケーピズムが漂っていたような気がする。
稲垣 足穂は、それを「人間流転のはかなき様相を暗示」した映画と見たと思われる。

「冥府の番頭」は、ロバート・モンゴメリが演じた。相手の女優は、イヴリン・キースで、ゲイル・ラッセル、ヴェラ・エレンなどとならんで、小粒ながら、「戦後」のスターといった女優だった。

「呪の家」、「カサブランカ」、「肉体と幻想」、「幽霊紐育を歩く」などが公開されたのは、1948年の夏だった。戦後の混乱がつづいていただけでなく、アメリカ、ソヴィエトの冷戦構造のなかで、私たちも変化しようとしていた。

私たちに作用しているが、しかし、作用する意識そのものを私たちにけっして見せない世界のなかで、私は彷徨していたような気がする。(この映画は、後年(1978年)、ウォーレン・ビーティーがリメイクしている。俳優としては、ウォーレン・ビーティーのほうがロバート・モンゴメリよりもずっといい芝居を見せていた。)

この夏、私は「世紀の会」の結成に奔走していたが、なぜか、ひどい疲れを感じるようになっていた。