【31】
ある日、私は荒 正人にさそわれて、近くの喫茶店に行った。荒 正人が私ひとりを喫茶店に連れて行く、こんなことは、めったにないことなので、私は緊張した。
コーヒーを注文したあと、荒 正人はすぐに切り出した。
「聞きにくいことを聞きますが、きみは、藤崎さんとどういう交際をしていますか」
私は驚いた。荒さんは何をいい出すのだろう。見当もつかなかった。
「仲のいい友だちだと思っていますが」
「そうですか。――じつは、藤崎さんは、近く結婚することになっています。そのことを、きみに知らせておきたいと思って、こうして話をしています」
荒 正人は、私がいつも藤崎さんと親しくしているので、一方的に愛情をもっていると思ったらしい。私は恥ずかしさのあまり、コーヒーをこぼしそうになった。荒さんが、わざわざ忠告するくらいだから、「近代文学」の同人たちもおなじような眼をむけているかも知れない。
人形劇をやるために藤崎さんにいろいろと教えてもらおうとしていることは、はずかしくて口に出せない。はじめて会ったときから、藤崎さんにひそかな恋情を抱いていたのが、荒さんに見抜かれたような思いで、彼女と私の距離がひどく近すぎることに狼狽した。
「申しわけありません。今後、注意いたします」
そんな弁解をしたような気がする。
藤崎 恵子は、私の家に遊びにきたことがある。そのとき、私は母に紹介したのだった。お互いに親しい感情はもっていたが、それは恋愛感情とは違ったものだった。ただ、藤崎さんが近く結婚する予定だということを、わざと伏せたのか。私の態度は、荒 正人に注意されるようなものだったのか。
恥ずかしさと、かすかな困惑で混乱しながら、できるだけ動揺を隠そうとしていた。
これで「おもちゃ箱」の劇は終わったと思った。残念だが、仕方がない。
わずかだが私と荒さんの間に沈黙が流れた。
つぎに、荒さんは意外なことをいった。
「中田君は語学を勉強しなければいけませんね」
これまた、思いもよらぬことばだった。
「このままだと、きみは十返 肇のようになりますよ」
十返 肇(とがえりはじめ)は、早熟な文壇批評家で、17歳で紀伊国屋のPR誌を編集し、戦時中は十返 一(とがえりはじめ)というペンネームで「谷崎潤一郎論」などを書いた。これは、なかなかいいものだった。(また、思い出したが――この雑誌に、まだまったく無名の椎名 麟三が短編を書いていたはずである。)
十返 肇は、しかし、戦後の激動に適応できず、1948年頃は、方向を見失ってひどい停滞を見せていた。その後、軽評論家という肩書で、じょうずにジャーナリズムを渡り歩いた才人だった。
私は、十返 肇のような批評家になるつもりはなかった。
荒さんは、私の居心地の悪さを察して、話題を変えて、文学的な助言をあたえてくれたにちがいない。
この日から私は語学を勉強する決心をした。
はじめフランス語を勉強するつもりだった。
しかし、椎野の部屋の隣りで、ある作家の膨大な蔵書を見ていた私は、すぐに断念した。あれだけの勉強に追いつけるはずがない。だいいち、私は貧乏だった。いくら雑文を書き飛ばしても、ろくに本も買えない状態だった。
荒さんに語学の勉強をすすめられた日、その足で駿河台下に出た。
「神田日活」の近くの路地に、ゴザを敷いた上に、アメリカ兵が読み捨てたポケットブックを並べている店があった。私はテキストになりそうな本をあさった。できれば、小説がいい。活字がぎっしりつまっている本は避けよう。
2冊を選んだ。ページをめくって、やさしくて、短い文章がつづいた本。作者の名前は聞いたこともなかった。
ダシール・ハメット。ウィリアム・サローヤン。
この日、英文法の本や、受験用の参考書などをあさっていたら、私は語学の勉強を断念していたに違いない。