【30】
安部 公房の処女作、「終わりし道の標べに」は、「個性」(23年2月号)に発表されて、すぐに「真善美社」から出た。
「アプレゲール・クレアトリス」というシリーズの一冊だった。
この「アプレゲール」という単語だけが切り離されて、「アプレ」という流行語になった。
「広辞苑」には――
アプレゲール(戦後の意) 1.第一次大戦後、フランスを中心として興った文学上・芸術上の新しい傾向。日本では、第二次大戦後、新しい文学を創造しようした若い著作家の一部をいう。2.転じて、第二次大戦後の放恣で頽廃的な傾向(の)にもいう。戦後派。アプレ。
誰がこの「アプレゲール・クレアトリス」ということばを考えたのか。
ある日、私はこの出版社にいた。
「真善美社」は、赤坂にあって、溜池という停留所のすぐ近くにあった。山王下といったほうが、わかりが早い。このあたりは、戦災をうけたため、焼け跡の空き地はまだ瓦礫が片付けられず、かなり大きなどぶ池がひろがっていた。
黒沢 明の映画、「野良犬」は、三船 敏郎が、戦後はじめて登場した映画として知られる。この映画に、戦後の風景が描かれている。大きなどぶ池の表面に、メタンガスのアブクが浮かんでは消えるシーンが戦後のすさまじい荒廃を感じさせる。この大きなどぶ池が、「真善美社」のすぐ近くの風景にそっくりだった。
「真善美社」は、この池の空き地の奥まったバラック建てだった。ここに、顧問というか編集長格の花田 清輝がいて、ほかに、中野 達彦、中野 泰彦の兄弟が「総合文化」の編集を担当していた。
神田の「近代文学社」と並んで、戦後文学の拠点の一つだったので、人の出入りもたえず、狭い応接室には、いろいろな作家、評論家が立ち寄っては、花田 清輝と会うのだった。私は、安部君といっしょに「真善美社」に行った。
私は「総合文化」に原稿を届けたのだった。安部君も私もこの日はじめて花田 清輝と会ったのだが、安部君はおもに花田さんと、私は中野 泰彦と話をした。中野君は、安部君と同年だった。つまり、私より3歳上ということになる。
このとき、中野 泰彦の机に、英文のカフカの短編集があった。私は、たまたま戦時中にはじめて出たカフカの長編を読んでいたので、中野 泰彦がカフカを読んでいることに驚いた。中野 泰彦も、私がカフカを知っていると知って興味をおぼえたようだった。
じつは、カフカはよくわからない作家だった。カフカについては何も知らなかったし、不思議なことを書く作家だと思った。つまり、たしかにカフカを読んだには違いないが、中野 泰彦が理解しているほどカフカがわかったとはいえないのだった。しかも、中野泰彦が、苦もなく英語を読んでいることに驚いていた。
私はドイツ語はおろか英語も読めなかったからである。
その帰りに、安部君は出たばかりの「終わりし道の標べに」にサインをして贈ってくれた。
「中田君、きみ、その本、もっているの? カフカっていう作家の?」
「うん、もってるよ。きみが読むんなら、このつぎももってこよう」
「さっき、きみと中野君の話を聞いてたんだ。おもしろそうだと思って」
「うん。君ならわかるんじゃないかな」
二日ばかりたって、小石川の安部君の部屋に遊びにいった。このとき、カフカを持って行ったのだが、安部君がジッドの「贋金作り」と交換してくれた。
私はこのときからジッドの影響を受けたわけではない。しかし、当時の私にとってジッドの批評は、ひそかな目標だった。
ときどき考えた。私がジッドをほんとうに「発見」したのは安部君のおかげだった、と。逆に安部君がカフカを「発見」したとすれば、私のカフカの1冊のせいではなかったか、と。