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【29】

当時の私は、たいして知識もないのに、頭デッカチ、しかも傍若無人な少年だった。だから、毎日のように「近代文学」に押しかけて、同人たちをつかまえては、色々な話を聞くことで勉強をつづけてきた。

1948年の「埴谷 雄高年譜」によると、この年に「死霊」が出版されている。
「近代文学」は、あたかも第二次の同人拡大の時期で、「同人間の交友盛んなり」とある。
この時期に、文学者の集まりは――神田の喫茶店「きゃんどる」から、駿河台下の昭森社のビルの「ランボオ」に移った。
昭森社のビルといっても、外側、入り口とカフェ側だけモルタル、いわゆる西洋館ふうにした二階建て、安普請の建物だった。
それでも、私たちは、戦後のパリ、「カフェ・ダルクール」や、「シャノワール」といったカフェに、さまざまな芸術家がつめかけて、活気を呈していたセーヌ左岸を想像して気勢をあげたものだった。

私は、「近代文学」に近い人びと、たとえば、詩人の栗林 種一、生物学者の飯島 衛を知った。このおふたりは、私に目をかけてくれた。
当時の私は、頭デッカチで、傍若無人な少年だったが、別の見方をすれば、人なつっこいタイプの少年だったかも知れない。
栗林さん、飯島さんといった先輩たちにとって、中田 耕治は、なぜかいつも「近代文学」にいる、やたらに好奇心の強い少年というところだったろう。
直接知り会った人々の書くものは、できるだけ多く読むことにしていた。ある程度まで、相手の経歴、文学的な志向といったものは、こちらが知識として理解する努力をしなければ、その人ほんらいの豊かさもわからない。
栗林 種一の詩を読んだ。埴谷さんが戦時中に出していた同人雑誌に載ったものまで。飯島 衛の論文も読んだ。これはよくわからなかった。同じようにして知り合った関根弘の書くものも読んだ。

安部君は、そんな人たちに興味がないようだった。

そんなある日、何かの話題が出て、みんながひとしきり談笑していた。このときの話題が何だったか、殆どおぼえていない。埴谷さんが微笑しながら、
「荒君も、もう少し思考の幅を拡げたほうがいいね」
といった。

このときほど驚いたことはない。大げさではなく、私の魂は震撼したのだった。
荒 正人は、私の眼には博識ならぶもののない人物家だった。しばらく後に、誰よりもはやく、サイバネティックスの研究をはじめたり、北欧ヴァイキングを研究したり、夏目 漱石に関して、さながらクロノロジックに漱石の生活、行動をたどるような評論家だった。その荒さんに向かって、率直にこういう東風が言える人はいったい何者なのか。私はほとんど自失して二人を眺めていたと思う。