【28】
もう少し気ままな回想を書きつけておきたい。
敗戦後の私に、はからずも芝居(演劇)の世界に関心をむけさせてくれたのは、荒 正人に会いに行ったときに「近代文学」の編集を手つだっていた藤崎 恵子だった。
彼女は、戦時中に、「文化学院」の同期生たちと、人形劇の劇団を作って、おもに関東地方の農村をまわっていたという。
学生は、すべて勤労動員で働かされていた。そのなかで、少数の仲間といっしょに、農村の慰問という名目で、警察の目を潜りぬけて、いわばドサまわりで人形劇を見せていた女子学生がいた。当時は、ドサまわりの旅役者も徴用されていたから、農村には娯楽もなかった。大都会だけでなく、地方の小都市まではげしい空襲にさらされたため、学童疎開で子どもたちが農村に疎開した。そうした子どもたちに人形劇を見せながら、ときには農家に泊めてもらう。娯楽のない農村で人形劇を見せたあたりに、神谷 恵子の驚くべき行動力があった。
戦時中に学生の身で農村にドサまわりの人形劇をやっていただけでも、かなり勇気が必要だったに違いない。当時、学生は勤労動員で、戦時産業に駆り出されていたし、たとえ、小人数の人形劇団であっても、あらかじめ警察に台本を提出して検閲を受けなければならなかったはずである。しかし、神谷 恵子は、検閲の目をのがれて、ゲリラ的に人形劇をつづけたという。
紙芝居のような枠をバックに、操作が簡単な「グラン・ギニョル」型の人形で、簡単な寸劇をやってみせる。それだけのものだったが、娯楽らしい娯楽のない農村ではけっこう評判はよかったらしい。
戦後になって、神谷さんは、もう一度、人形劇をはじめたいと思っていたが、仲間と連絡もつかないまま、人形劇の台本の書き手をさがしていた。「近代文学」に通いはじめて神谷さんと親しくなった私は、戦前の「テアトロ・プッペ」の機関紙や、人形操作のガイドブックなどを借りて読んだ。
それだけでなく、人形劇のための台本を書いてみないか、とすすめられた。
武井 武雄の童話を、人形劇でやってみたらどうか。
そんなことから、舞台のバックは、安部 真知に頼んでみよう、という話になった。後年の安部 真知が舞台装置を手がけているが、しかし、この話はすぐに消えた。
私が考えたのは、武井 武雄の「絵噺」の脚色だった。もし、台本ができれば、装置(背景)は安部 真知に頼もう。
安部 真知なら、きっと描いてくれるだろう。
ドラマのオープニングは、「口上役」からはじまる。
オモチャノ クニハ オモチャバコノ ナカニ アルノデス。
チヒサイ キレイナ トテモトテモ カアイイ オクニデス。
コノクニニ アッタ オハナシヲ ミンナ ゴホンニカイタラ フジサンノ
三バイニモ ナルクラヒデス。
デハ ソロソロ フタヲアケマスヨ。
むろん、このプランは実現しなかった。
はるか後年、安部 真知が、安部 公房の芝居の舞台装置を手がけたとき、私は、真知といっしょに武井 武雄の童話を人形劇にしたいと話したことを思い出した。
武井 武雄の「画噺」が出た1927年に私は生まれている。(笑)
残念ながら、武井 武雄も初山 滋も、「すでに、遠く霧のなかにしずんでしまった」芸術家なのだが。