【26】
私が安部君と親しくなった時期、彼と真知さんは、それまで住んでいた中野から小日向に移ったばかりだった。
この界隈も空襲の被害が大きく、安部君が間借りした家の周囲は焼け跡ばかりで、一軒だけ焼け残ったように見えた。
さしてめずらしくない家屋で、玄関先の狭い部屋に、安部君たちが間借りして住んでいた。戦前は、書生部屋か女中部屋だったのか。当時としても破格の安い家賃だったが――戦後の殺伐とした日々、それまでは考えられなかった凶悪な犯罪が頻発した。とくに、焼け跡にポツンと一軒だけ焼け残ったような家は、強盗に狙われて、その住人が強姦されたり殺害されるといった事件が頻発した。
この家の大家さんは上品な老女で、幸運にも戦災はまぬかれたが、近くで異様な事件が起きたため身辺に危険をおぼえて、同居人をさがしていた。たまたま新婚の安部君たちを気に入って、同居人にしたという。
安部君は東大に戻るため、この界隈に部屋を探していたのだった。
武井 武雄のことに話を戻そう。
安部 真知は、「あるき太郎」とか、「動物の村」といった幼年向きのイラストつきの童話をよく話題にした。少女の頃、愛読したようだった。(いそいで断っておくが――まだ、イラストということばも存在しない。真知は昭和初期の「武井 武雄画噺」のシリーズが好きだったから、大きな影響をうけた、などというのではない)。
ふたりは、初山 滋のこともよく話題にしたが、私のほうが初山 滋の仕事を知らなかったので、真知はあまり話題にしなくなった。
武井 武雄を話題にしたことから、真知自身の描いた絵、大きなスケッチブックに描かれたデッサンなどを見せてもらった。
真知は美少女だった。私とあまり年齢が違わないのに、ずっと年上のように見えた。私があまりにも幼稚だったせいだろう。新婚間もないふたりの部屋に押しかけて、自分でもよくわからない難しい議論を吹っかけるような少年に辟易していたに違いない。しかし、そんなようすは少しも見せず、若い夫とさらに年下の少年が夢中になって話しあっているのを聞いている。食事もろくにできない時代だったから、私をもてなすビスケットの1枚もなく、ただ黙ってときどきお茶を注いでくれた真知を思い出す。その水は、二人が借りていた部屋の大家さんが、戦時中、小さな家庭菜園にしていた庭の井戸から汲みあげなければならなかった。だから、夜中でも、真知は下駄を突っかけて庭に出て、両手でポンプを動かして水を汲むのだった。
安部君の部屋で語りあっているうちに、夜もふけて泊めてもらったことがある。
新婚そうそうの安部君たちが廊下に寝て、私を自分たちの部屋に寝かせてくれたのだった。そのとき、真知が自分のパジャマを貸してくれた。
今、思い出しても、若い頃の私が、どんなに非常識な少年だったことか。
翌朝、私と安部君は、パン1枚を半分わけあって食べただけで、早朝から買い出しに出かけたのだった。
当時の真知は、油絵を描きたいと思っていたが、絵の具も買えないほど貧しかった。それでも、少しも屈託を見せなかった。
たった一枚だが真知の油絵を見たことがある。
セザンヌの風景画を模写したものだった。
少年の私は、食うや食わずの生活で、貧しさにめげず、ひたむきにセザンヌの模写をつづけていた真知を知って感動した。
はるか後年、私は女子美の先生になったが、女子学生の描く模写を見るたびに、きまって安部 真知の絵を思いうかべた。
これも身勝手ないいかたと承知しているが――私の内部では、女子美の女の子たちの絵やデッサンを見るたびに、はじめて見た安部 真知の絵が、女子学生たちの才能を判断する一つのクライテリオンになったような気がする。
これもはるかな後年、私は南フランス、ラ・カリフォルニーのピカソのアトリエを見に行ったことがある。マヤ・ピカソの好意で、ヴァローリスのアトリエを見ることができたのだった。この旅で、マルセイユからカンヌを通ったが、途中でサント・ヴィクトワールの麓に出たとき、セザンヌのことを思い出しながら、「戦後」すぐに安部 真知が描いた絵を思い浮かべた。