【24】
ある日、私は山室さんの専門が北欧文学と知った。北欧文学とは何か。聞いたこともなかった。
私は、やがてアメリカ文学の翻訳をするようになるのだが、翻訳をはじめて間もない頃に、当時、新人としてスウェーデンに登場したスティ・ダーゲルマンの戯曲を訳した。
これも、戦後、山室さんをつかまえて、いろいろと新しいスカンジナヴィア文学のことを教えてもらった結果だったかも知れない。(ただし、これも僣越ないいかたで、今の私がこんなことをいえば山室さんは苦笑するだろうと思う。)
いちいち、こんな愚にもつかないことを思い出しているときりがない。
当時の安部君にとっては「近代文学」の人たちの話題が、「輪郭不明の朦朧体」としか見えなかったのは、止むを得ないことだった。安部君は、日本の文壇小説にまるで関心がなかったからである。
「終りし道の標べに」は、初版(1948年)のあと、どういうものか、20年間、再刊されなかった。むろん、安部君が、その20年にまったく別の世界を切柝したのだから、あらためて処女作を出すことなど考えなかったに違いない。それは、「無名詩集」もおなじことで、作家はこの詩集の再刊を許さなかった。
この詩集をまっさきに称揚したのは、佐々木 基一さんだった。
安部君は、佐々木さんよりも埴谷さんを相手にドイツの哲学者を話題にしたり、とくに、リルケを話題にした。佐々木さんは、ホフマンスタールが好きだったので、私を相手にホフマンスタールを論じたりした。しかし、安部君は、ホフマンスタールよりも、山村さんや私を相手にリルケを語りあうことに、救い、癒しといったものをおぼえたようだった。
山室さんは、安部 公房の作品を認めていたが、私の記憶しているかぎりでは、安部君と話をすることはほとんどなかった。いつも、にこにこして、私と安部君の話を聞いていただけだった。
私たちは、いつもフッサール、ニーチェ、リルケの話ばかりしていたわけではない。
ときには意外な話題や、思いがけない芸術家の名前が飛び出したものである。