【22】
後年の私は、老境に達した埴谷さんが誰かによく似ているような気がした。
誰だろう? すぐに思いあたったのは――なんと、ヘンリー・ミラーだった。老齢に達すると、人種の違いを越えて、どことなく似てくるものだが、まさかヘンリー・ミラーが埴谷 雄高に似ているのか、埴谷 雄高がヘンリー・ミラーに似ている、とは。そんなことをよく考えたものだった。
かりに、埴谷 雄高がヘンリー・ミラーに似ているとすれば、笑いにあるのではないか、と思ったものである。
むずかしい討論をしている場合でも、埴谷 雄高が何か口をはさんで、屈託のない笑い声をあげると、その笑いに誘われて、その場の空気が一変する。そんな場面に何度も立ち会ったことがある。(これは、あとで書くことにしよう。ただし、書けないかも知れない。本郷三丁目の酒場で、加藤 周一、花田 清輝の大論争に、埴谷 雄高、安部 公房が立ち会ったことや、おなじように、「らんぼお」での、三島 由紀夫と安部 公房の論争に、中村 真一郎、埴谷 雄高が立ち会ったことにふれなければならないので。)
もう一つ、くだらないことを思い出した。
安部君と親しくなったとき、誰かによく似ているような気がした。誰に似ているのか考えた。これもすぐに思いあたった。
鼻がトルストイそっくりなのだ。あの「戦争と平和」の作家に。私は、この「発見」にわれながら満足した。
後年、私は、ヤスナヤ・ポリアナに行く機会にめぐまれたが、邸内に飾ってあったトルストイの写真を見たとき、安部君のことを思い出した。
中田 耕治は、こんなつまらないことを考えてうれしがっている、と思われるかも知れない。
しかし、これは私が、いわば類推の魔にとり憑かれていたことをしめす例にちがいない。後年の私が、エロスや、悪魔学などに関心をもったのも、ある部分、埴谷 雄高の大きな影響による。
戦時中、埴谷 雄高は、「近代文学の連中」に女性の性的なオーガズムについて、綿密、かつ、実践的なレクチュアをあたえた。私は、このことを安部君から聞いた。
それは、最高の状態でコイトゥスを経験する女性は、ふつうの刺激で得られるオーガズムで満足する。しかし、ある特殊な刺激を受けると、1時間以上にわたって、オーガスミツクな状態を持続する、という説だった。
後年の私は、キンゼイや、マスターズ/ジョンソンや、メァリ・ジェーン・シャーフェイなどを読んで、女性のオーガズムの本質的な条件をくわしく知るようになったが、それより遙か以前に、埴谷 雄高の説を知っていた私にとっては、さまで驚くほどのものではなかった。