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【17】

1947年。まだ春も浅い頃。

その日も、「近代文学」に行くつもりで、ゆるやかな坂を歩いて行くと、たまたま埴谷 雄高が若い青年と一緒に外に出てきた。
「やあ、中田君」
埴谷さんが声をかけてきた。
「きみに紹介しておこう。安部 公房君。いい小説を書いている」
つれの青年に、
「これが中田耕治君。批評を書いている」
安部 公房と私の出会いだった。

この坂は、ポプラ並木が続いている。戦後の記憶が、遠くはるかな霧のなかに沈んでしまった今でも、あのポプラの木の下で安部君と出会ったときの光景は心に残っている。

埴谷さんが、安倍君と私をつれて行った店は、安普請の喫茶店で、レコードのバック・ミュージックが流れていた。
お茶の水界隈で、いちばん早く開業した喫茶店だが、名前はおぼえていない。その後、この店は、何度か名前を変えた。しばらくは、女子学生相手のみつ豆専門の和風喫茶だったり、有名なドーナツのチェーン店になったり、さらに大規模なパンとコーヒー専門のカフェになったりした。

そのときの話で、安部 公房が、評論家の阿部 六郎の紹介で、埴谷さんに会いにきたことを知った。私は、安部 公房が、阿部 六郎の推輓で、埴谷さんに会いにきたと知って大きな興味をもった。むろん、理由はある。

戦時中の私は、ただひたすら小林 秀雄のエピゴーネンだったといっていい。ただし、小林につづく世代の批評家のものもかなり読んでいた。
たとえば、阿部 六郎、杉山 英樹、丸山 静、小松 伸六。

杉山 英樹は「近代文学」の人々とも親しかった批評家だが、惜しいかな、戦後すぐに夭折した。戦後の丸山 静は、一、二度、「近代文学」にも書いたひとだが、左翼の批評家。戦時中に書いた「ジュリアン・デュヴィヴィエ論」は、若き日の佐々木 基一、福永 武彦の映画批評とともに私の心に刻まれている。

阿部 六郎は、シェストフの「悲劇の哲学」(河上 徹太郎共訳)で知られている。
私は、「地霊の顔」で、ゴーゴリの「ディカニカ近郊夜話」に出てくる「ヴィー」、「ウェージマ」という地霊、魔女について教えられた。後年、私が「ゴーゴリ論」を書いた原点は、この「地霊の顔」にあったと自分では思っている。むろん、影響をうけたとまではいわない。
この人の兄にあたる阿部 次郎の「生い立ちの記」や、「学生と語る」といった著作に、私はまったく心を動かされなかったが、それに較べれば、阿部 六郎の「地霊の顔」のほうが主題的にもずっとおもしろかった。そんな程度のことだったかも知れない。

しばらく話をしているうちに、阿部 六郎とそれほど親しいわけではなく、ただ、高校で阿部 六郎の著作を読んだことがあるだけという。

安部 公房と友だちになって、私にとって人生は、かなり楽しいものになった。生まれてはじめて、まぎれもない詩人を見つけたのだった。

作家志望者を友人にもつのは初めてではなかった。作家志望者なら文芸科の学生たちに、いくらでもいた。しかし、安部 公房には、驚くべき知力と、しかも、優しさとデリカシーがあって、いっしょにいるのが楽しかった。
その知性には――なんというか、強靱な伸長力のある鋼鉄のようなものがあって、それは私のもたないものだった。私は、当時の安部 公房に、「戦後」という時代にこそふさわしい、わかわかしい生命力、はげしい意欲を見ていた。

ただし、彼と私ははじめから違っていた。彼は天才だったが、私はただの文学青年だったから。
お互いの関心もまるで違っていた。
安部君は、たとえば、日本の文学、とくに短詩形の文学にまったく関心がなかった。私は、中学生のときに久保田 万太郎の講演を聞きに行ったり、毎月、歌舞伎座で立ち見をしたり、雑誌なども手あたり次第に読みつづけるような文学少年だった。それで、お互いの違いからいろいろと話題は尽きなかったのだと思う。

いろいろな話題が出た。私は、埴谷さんが上手に話をふってくれるので、カレル・チャペクの戯曲の話をしたことをおぼえている。安部君は、リルケのことを話した。埴谷さんは、私と安倍君が、お互いに仲よくなればいい、と思っていたようだった。

この日から、私は、毎日のように、安部 公房と会って、お互いに語りあうようになった。私にとっては「近代文学」以外に、はじめて知りあった仲間だった。