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【15】

戦時中からかなり多数の本を読んでいた。「文芸科」の科長だった山本 有三先生が、蔵書の一部を川崎の工場に寄贈したため、私たちは本を読むことに不自由しなかった。戦後は、山王の立花 忠保さんの書斎にいりびたって、手あたり次第に読みつづけた。忠保さんの書庫には、戦前の映画雑誌がたくさんあって、私はその全部を読破した。そればかりか、忠保さんのレコードを聞いて音楽に親しむこともできた。

立花 忠保さんは、京大に在籍中だったが、肺結核の療養のために休学していた。戦時中、古書も払底していた時期に自分の蔵書を開放して、隣組や近所の人たちが自由に利用できるようにしてくれた。利用者は少なかったと思われるが、私は毎日のようにこの書庫に通った。
おもに文学書が並んでいたが、戦前の古い映画雑誌、「スター」などがそろっていた。私はこの雑誌を全部読んだ。
見たことのない映画ばかりだったが、多数のスターのグラビアを見るだけでも楽しかった。その中に、植草 甚一、双葉 十三郎などの訳で、アリメカの短編小説や、飯島 正の訳で、フランスの短編小説や、映画の紹介などが掲載されている。とにかく何でも読んだのだった。
少年時代の私は、立花 忠保さんの蔵書にじつに多くを負っている。いま思い出して感謝のことばもない。

こうした「修行」apprenticeship があったおかげで、「近代文学」の人びとの話題にも、なんとかついてゆくことができたのだった。
あるとき、私がうっかり昭和初期の作家も読んでいるといったとき、平野 謙が、疑わしそうな顔をして、
「きみは、プロレタリア文学のものまで読んでいたの?」
と訊いた。
私の年齢の少年が、戦時中にプロレタリア文学を読んでいるはずはない。そう思うのが自然だろう。しかし、中学生の私は、「三省堂」の書棚で「新興芸術派叢書」を見つけて、1冊づつ買って読んでいた。(1943年には、「三省堂」でさえ、新刊書が極度にすくなくなって、書棚に空きが見えるようになった。そのため、倉庫に残っていた本を並べたらしい。)
私がなんとか金を工面して、一方で堀 辰雄や、津村 信夫を読みながら、同時に、片岡 鉄兵や、前田河 広一郎などを読んでいたことは偽りではない。

むろん、中学生の知識で、プロレタリア文学を理解していたなどとはいえない。それでも、「空想家とシナリオ」や「鶏飼いのコミュニスト」なども、古雑誌で読んでいた。
空襲がひどくなってから、あわてて疎開する人がふえた。運ぶ荷物が多すぎて、蔵書や、古雑誌などが路傍に投げ出されていることもあった。たちまち、通行人がむらがって、勝手に選びだして持ち去るのだが、そんな古雑誌に戦前のプロレタリア文学作品が掲載されていても不思議ではない。ただし、伏せ字が多かったけれど。

ほんの少しばかり、昭和初期の作品を知っていたからといって、平野さんが、私に一目を置いたなどということはない。ただ、戦時中にプロレタリア文学を読んでいた中学生がいたことに驚いたようだった。

ある日、今では何を話したのかほとんどおぼえていないのだが、丹羽 文雄の「海戦」(1943年)が話題になった。荒さんたちは、丹羽 文雄が戦争に協力した作家と見ていたが、私は、戦時中のドキュメンタリーとしては出色のものと見ていた。この作品に見られる文壇作家としての反省めいたものは、まったく不要で、これがノン・フィクション(当時は、こんなことばもなかった)としての力を弱めていると見た。
私の意見は、たちまち反論をうけて、すごすごと引きさがるしかなかったが、「近代文学」の人びとの話を聞くことが、どんなに有効な文学修行になったことか。どんな話も、私にとっては有益だったからである。

「近代文学」の人びとは、編集会議を終えたあと、すぐに雑談に入るのだが、そのときの話に、安部君も私も加わることが多かった。話題は、文学にかぎらず、宇宙論からデモノロギー、社会の動きから、個々の雑誌の作品の月旦、はてはゴシップまで、かぎりなくひろがってゆく。

埴谷 雄高の発言は、いつも驚くほど犀利で正確だった。「死霊」の難解さに驚いていた私は、いろいろな座談での埴谷さんの発言が、高度な内容をもちながらもやさしく語られることに驚いたものだった。いろいろな人のウワサが出ても、それはいつも人情の機微をわきまえたもので、埴谷さんの個性が聞き手におよぼす直接的な効果は大きかった。