【12】
私は母に、荒 正人という評論家に会いに行くことになった、と告げた。
「へぇー、荒 正人ってどんな人?」
「よくは知らない。最近、世代論で世間の注目をあつめている人」
「そいじゃ、えらい人だね。耕ちゃんに会いたいって、いってきたのかい」
「そうじゃないけど、椎野が会いに行けって」
その日、私の母は闇市を駆けずりまわった。
そして、古着を一着見つけたのだった。ただし、その古着を買う金がなかった。自分が疎開しておいた着物と帯と交換で、その古着を手にいれた。
小柄な私の背丈にぴったりの、ベージュ色の背広だった。
私は革が破れかかったドタ靴をはいていたのだが、母は靴も見つけてきた。
新品ではなかったが、母がみがいてくれた。乾いてカチカチになった靴クリームを、古いボロ切れになすりつけて一所懸命にみがきあげた。
父のネクタイを拝借した。なんとか見られる恰好になった私は、荒 正人に会いに行った。
お茶の水駅から歩いてせいぜい数分。
今は明大の大きな建物が立っているが、当時は、木造二階建ての「文科」が道路にへばりつくように建っていた。その斜め前、やや離れた位置に「文化学院」があって、その二階に「近代文学」の編集室があった。
戦時中は、「全国科学技術連合会」という団体が、応接室として使っていた部屋という。戦争が終わって、この団体は活動を停止した。その空室の机一つを「近代文学」が借りて、編集室に使っていたらしい。
ドアをノックすると、小柄な若い女性が顔を出した。
「荒 正人さんは、いらっしゃいますか」
彼女はけげんなまなざしで、私を見た。
私が「時事新報」といいかけると、
「あ、あなたが「耕」さんね」
といって、室内に入れてくれた。
机に向かって何か書いていた人が、こちらに顔を向けた。
「荒さん、こちら、「耕」さんですって」
彼女の眼は、まるで何か起こるのを期待しているかのように、私に注がれていた。
私はあまり緊張しなかった。それよりも、机に向かっていた荒 正人は私を見て驚いたらしかった。まさか少年がやってくるとは思ってもみなかったのだろう。そのときの荒さんの顔は今でも忘れられない。
荒さんは私の前に立って、
「きみが、アレを書いているんですか」
といった。
いちおう名の通った新聞の文芸欄の匿名批評を手がけているのだから、有能な新聞記者か、戦前から同人雑誌に書いていた同世代の書き手を想像していたらしい。
私は荒 正人のハガキを見せた。
「きみが「耕」さんですか」
それからあとは、つぎからつぎに質問を浴びせられた。
荒さんはほんとうに口角泡を飛ばすといった、せき込んだ話しかたをする人だった。
私がどうして「時事新報」に匿名のコラムを書くようになったか。そして、椎野 英之の話。
私が、ドストエフスキーを読んでいると知って、「ラスコーリニコフ」の話題になった。たまたま、バルザックの「ゴリオ爺さん」を読んでいた私は、「ラスティニャック」は犯罪によって自分を形成しようとしているのだから、「ラスコーリニコフ」と共通するのではないか、などと話した。当時の私はひどく生意気な文学少年だったので、荒さんの質問にもさほど困らなかった。
私は同年代の少年よりはずっと多くの作品を読んでいたと思う。
当時は無名に近い作家のものも少しは読んでいた。たとえば、荒木 巍(たかし)、吉行 エイスケ、串田 孫一、通俗作家では、北林 透馬、橘 外男など。
荒さんの分厚いメガネの奥で、目がまるくなった。
私は、つぎからつぎにいろいろな話をした。荒さんから何を聞かれても、いちおう答えることができた。むろん、私は得意げにしゃべったわけではない。
最初、まるで査問を受けているような居心地のわるさ、ぎこちなさはすぐに消えて、旧知の先輩と話しあうような楽しさがあった。
この日から、私は「近代文学」に顔を出すようになった。