【11】
戦後、私がもの書きになった経緯については、これまで何度も書いているので、あらためて書く必要はないのだが、椎野 英之に関係があるので、ごく簡単に説明しておく。
戦後の椎野 英之は、「文学座」に戻らなかった。敗戦後の激烈なインフレーション、社会情勢の激変、食料難、その他、いろいろな家庭の事情が許さなかったのだろう。
1946年、日本の「戦後」。何もかも麻痺したため虚脱したような気分と、左翼を中心にした、新しい時代の「歌声よ起これ」といった高揚した気分がぶつかりあっていた。
アメリカ占領軍の軍令下で、戦犯の逮捕、共産党の野坂 参三の帰国、最大規模のデモ、それこそ「玩具箱」をひっくり返したような大混乱がつづいた。
その混乱のなかで、私はシュヴァイツァーの「文化の衰退と再建」を読んだ。
戦後、経済的に非常な困難と、用紙の極度の払底にもかかわらず、日本のジャーナリズムに新聞、雑誌の創刊ブームが起きた。文学関係では、「近代文学」がもっとも早く登場したが、「世界文学」、「新日本文学」、「綜合文化」、同人誌の「黄蜂」、戦争末期、鎌倉在住の文士たちが、生活のために貸し本屋をはじめて、それが戦後すぐに、「鎌倉文庫」という出版社のかたちで出発した。雑誌「人間」が創刊され、「文学界」が復刊した。平野 謙は編集者として誘われたという。そのときの条件は、月給、300円だったらしい。
おびただしい雑誌が氾濫したが、それも束の間、大半はインフレーションのなかで消えてゆく。さすがに日刊の新聞の創刊は、それほど多くはなかった。それでも、「時事新報」の創刊は、戦後のジャーナリズムの流れのなかでは大きなできごとだったように思う。
椎野 英之は、この「時事新報」に入社した。日刊新聞といっても、新聞用紙が極端に払底したため、わずか2ページ。つまり、1枚の紙のウラオモテだけの日刊紙だった。
1面、いわゆるフロント・ページは、政治・経済のトップ・ニュース。その裏が社会面で、世相、風俗、犯罪から、食料の配給、復員船の入港、ラジオ欄、有名人の随筆、広告、みな入り込みのごった煮といった作りだった。
紙面のスペースがかぎられているので、芸術、芸能関係の記事は載せなかったし、新聞小説もなかった。したがって、記事がギュウギュウつめ込まれているだけで、全体にあまり特徴のない新聞だった。
椎野は新人なので警察まわりをやらされた。ところが、記事を書くのが苦手だった。そこで、紙面に短いコラムを作ろうと編集長を口説いた。これが採用された。
コラムは「白灯」という題名にする。おもに文芸時評のかたちをとった匿名批評。字数は400字程度。週に3本の予定。
筆者は椎野 英之。
椎野は警察まわりの記事も書かないくらいだったから、この企画を立てたとき、真先に私に相談した。
「耕ちゃん、この囲み(コラム)はきみが書いてくれ」
という。
「うん、いいよ」
こうして私は椎野の影武者になった。その日からコラムを書きはじめた。「耕」というサインで。
「白灯」は、戦後、もっとも早く登場した匿名批評だった。半年ばかりたって、大阪の新聞、「新夕刊」に、字数、400~500程度の「匿名批評」が登場した。これは、林 房雄が書いたといわれている。これが、キッカケで、別の新聞に、大熊 信行、大宅 壮一なども匿名で登場する。
朝、私のところに電話がかかってくる。
「出来てるかい?」
「うん、2本」
「じゃ、寄ってくから」
やがて、椎野が私の家の前の狭い坂をあがってくる。(この坂の奥に、寿岳 文章の邸宅があった。)
私は、清水さんというお宅の前まで出て、書いたばかりの原稿をわたしてやる。椎野は、その坂の奥、寿岳 文章さんの門の前から折れて、大森駅に出るのだった。
私のコラムはそれまでになかったものだけに、いくらか評判になったらしい。
「耕ちゃん、すごいぜ。どこにいっても聞かれるんだ。誰が書いているんだって」
椎野がいった。
10本ばかり書いたとき、「時事新報」文化部、「耕」あてにハガキが届いた。
「白灯」に注目しているという内容で、署名は荒 正人。
「おい、耕ちゃん、この人に会いに行けよ」
「誰が書いているか、バレちゃうじゃないか」
「きみが書いているといえばいい。むこうも、おもしろがってくれるさ」
私は少しひるんだ。