1614


【10】

「近代文学」の創刊号が出たのは、敗戦(1945年)の歳末だった。私は創刊にまったくかかわりがない。私はまだ明治大学文科に在籍中で、18歳の少年だった。

この創刊号は、A5版、64ページ、へんぺんたるパンフレットのようなものだった。
最初の原価計算によれば、印刷工の組代が640円、印刷費が350円、製本が300円、印刷費の総計が1760円という見積もりだったという。
ところが、敗戦直後から激烈なインフレーションが起きて、年末には、実質的に数十倍の高騰を見ている。「近代文学」の定価は、10月の予定では1円20銭だったのが、12月の発売では3円に変更されている。むろん、インフレーションの影響による。

私の場合――敗戦直前の私は、毎月、54円程度の報酬を得ていた。
日給は2円。(小学校卒業で徴用され、工場に配置された少年工は、日給、1円だった。)
比較のために書いておくと――古本のプルースト全集、5巻で50円、ヴィリエ・ド・リラダンの原書が20円だった。つまり、日曜日を除いてフルに働いても、本を2、3冊買っただけで給料は消えてしまう。
とにかく貧乏学生だったから、「近代文学」の創刊号を買うこともむずかしかった。

敗戦翌年の正月そうそう、大森駅の駅前の本屋で平積みになっている雑誌を見た。
表紙もついていない雑誌だったが、目次をみただけですぐに読んでみようと思った。
執筆者のなかに自分の知った名前があったからである。

創刊号に、埴谷 雄高が「死霊」の第一回を書いている。埴谷 雄高の名は知らなかった。佐々木基一が長編の連載をはじめていた。私は佐々木基一が、戦時中の「映画評論」にペンネームで文化映画論を書いていた映画評論家と知っていた。
戦時中に、佐々木 基一が「新潮」に書いた短いエッセイも読んでいたし、本多 秋五が「文学界」に書いたエッセイを読んでいた。

ついでにもう一つ。へんなことを思い出した。

戦時中に、植草 甚一の名前を知ったのだった。(むろん、後年の映画やジャズの評論家としての「植草 甚一」ではない。)
戦時中、ヴァレリー全集が刊行されていた。その1冊の月報(これまた、B5版、粗悪なワラバンシわずか1枚のリーフレット)がついていた。これに、ヴァレリーの著作、「ヴァリア」を探しているので所持している方にぜひ借覧させてほしい、という編集部のアピールが載っていた。これが、私の記憶に残った。
ヴァレリーにそんな著作があるのか、と思ったから。

つぎに出たヴァレリー全集のリーフレットに――世田谷在住の植草 甚一氏のご好意で、「ヴァリア」を参看できた旨の謝辞が出た。

少年の私は、フランス本国でも部数の少ない稀覯本を、戦時下の東京で所持している人がいると知って、信じられない気がした。このときから、植草 甚一の名は忘れられないものになった。
はるか後年、植草 甚一と親しくなって、植草さんの話をうかがう機会が多くなったが、戦時中に植草さんの名を知っていたことは話題にしなかった。