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【9】

 

戦後の混乱は、一方ではかぎりない自由と解放だったが、一方では、敗戦の混乱と苦痛とみじめさにさいなまれて、死を選んだ人もいる。私と同期で、戦後の混乱のなかで自殺した人が2名いる。それぞれ自殺の動機は違っていたらしいが、この二人の死から、私が死ぬことがなかったのは、ただの偶然に過ぎないのではないかと思ったものである。

前にも書いたように、少年時代の私には、少数ながら大切な友人がいた。
小川 茂久、覚正 定夫、椎野 英之。

小川 茂久が大森に住んでいたので、なにかと世話になった。蔵書が全部焼けたため、読む本がなかった私に、有島 武郎の全集や、鴎外などを贈ってくれたのは、小川 茂久だった。(小川は、後年、明治の仏文の教授になった。私は、さらに後年、文学部の講師になったから、毎週、一度は小川 茂久と会って、酒を飲むようになった。)

覚正 定夫については、これまで書いたことがない。
彼は、戦後、小川 茂久と同時に、演劇科の助手になった。やがて、私の紹介で、安部 公房と親しくなり、左翼の映画評論家、柾木 恭介として知られる。

1945年、覚正 定夫は父を失った。彼の父は輸送船の船長だったが、フィリッピンに向かう途中、アメリカ潜水艦の魚雷攻撃を受けて戦死した。母は大連在住だった。
この年、彼自身も本郷で罹災した。
しばらく消息不明だったが、まったく無一物になった覚正 定夫は、友人の家を転々としていた。その彼が、敗戦直後、私を頼ってきた。彼は、重度の身体障害者だったので、「戦後」のひどい状況のなかで生きて行くこともむずかしかったと思われる。私の母(宇免)は彼の身の上を心配して、とりあえず私と同居させることにしたのだった。

私たちは叔父の家の居候だったから、覚正 定夫は居候の居候ということになる。

私は階段の横、1畳半ばかりの納戸のような部屋で寝ていた。覚正 定夫と並んで寝ると、まるで監獄の雑居房に寝るような感じだった。それでも、私と覚正 定夫は、いつも文学や芸術の話をしていた。

宇免は、埼玉県に疎開した実母(私の祖母)のところで食料を仕入れて、大森に運んでは、私たち(父と私、覚正 定夫)に食べさせてくれた。戦後の食料難の日々、なんとか私たちに食べさせてくれた母の苦労を思うと、いまさらながら申しわけない気がする。

冬になって、寒さをしのぐ外套もなかった。戦災で無一物になったため、ひどい貧乏で、戦後の激烈なインフレーションのなかに投げ出されたからだった。
私は両親の負担を少しでも軽くしたかった。何でもいいから仕事を探したかったが、戦後の混乱のなかで仕事があるはずもなかった。