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【8】

 

9月、アメリカ軍が上陸して、それまでとまったく違った文化が雪崩れ込んできた。

大森、山王にも大きな変化が見られた。
最後まで空襲の被害を受けなかっただけに、りっぱな門構えの豪邸が残っていた。椎野の家の周囲にも、戦前のブルジョア階級の趣きをもった豪邸があった。その家の令嬢たちは、驚くほど美貌だった。アメリカ軍の上陸直後から、このお嬢さんたちは、アメリカの兵士たちと仲良しになって、自宅で毎晩パーティーを開くようになった。
戦後、もっとも早く日米交歓を実現した例といっていい。(3年後、私は、偶然そのひとりを見かけたことがある。これ以上ふれないが、ある大きなキャバレーで、特殊なショーに出ていた。)

戦後の索漠たる風景も、いまはもう知らない。
「近代文学」創刊号の「同人雑記」、本多 秋五が「焼跡で」という短い断章で、

 

墓場と、煙突と、土蔵で、寺と風呂屋と質屋がわかる。

 

と書いている。

いちおう近代都市だった東京も、ほとんど壊滅して、焼けただれた墓場と、かつては町だった土地に、銭湯の煙突だけが残っていた。江戸時代や明治の頃をおもわせる土蔵の壁も炎にあぶられて変色していた。内部も焼け落ちていたし、質草が焼け残ったとしても、すべて奪い去られていた。これが敗戦国のすさまじい現実だった。

大学は再開されたが、教授たちもほとんどが疎開したり、生活に追われて、授業も満足に行われなかった。
それでも、毎日、大学に行ったのは、親友の小川 茂久、覚正 定夫(柾木 恭介)たちに会えるからだった。
お茶の水駅の階段をのぼったが、空腹と栄養失調で、いっきに登ることができなくなっていた。階段の途中で2度も足を休めた。慢性的な栄養失調で、足がふらついて、いっきに登れなかった。

戦後、すぐに国民の窮乏がはじまった。
激烈なインフレーションが起きただけでなく、全国的に食料が欠乏した。それまでの配給制度が崩壊したため、欠配、遅配が日常化した。

戦後も戦時の経済統制の法律を遵守して、配給の食料だけで暮らしたため、餓死した判事もいた。

随筆家の小堀 杏奴は、戦時中、祖国を勝利にみちびくために自分たちができることは、せめて闇(ブラック・マーケット)の食料を口にしないこと、と考えて、戦争中は、まったく闇なし(配給だけで生活する)を実行した。
敗戦後の10月、ついに闇でジャガイモを買って食べたが、家族4人が腹をこわしたという。

戦後の混乱で、いちばん目だったのは、闇の女と呼ばれた娼婦の出現だった。
アメリカ軍兵士が上陸した。1945年9月。
私は、その日、新橋から電車に乗ったのだが、たまたま乗り合わせた若い女2人が、ほかの乗客に聞こえよがしに、自分たちがアメリカ兵数名にジープにつれ込まれて輪姦されたことをうれしそうに話した。彼女たちは、占領軍のようすを見物しに茨城県から上京したらしい。モンペをはいた田舎娘たちは、代償にチョコレートと、Kレーションをもらったことを話していた。
ふたりは、途中の停留所で電車を下りたが、ふたりとも疲労したのか、腰を落として、お互いにしがみつきながら歩き出した。うしろ姿が露骨にセックスを連想させたので、乗客たち、みんなが苦笑した。
電車の車掌が、そばにいた私にむかって、
「戦争に負けた国の女は、どこでもああだからな」
といった。
このときのことは小説に書いたが、その翌日、銀座で、若い女の子たちが、アメリカ兵に笑いかけて、しなだれかかったり、手を繋いで歩いているのを目撃した。
通行人はこの光景を見ないようにして歩いていた。

私は、上野や、有楽町、日比谷界隈の風景しかおぼえていないのだが、敗戦直後の食料難と、すさまじいインフレーションのさなか、生活のために春をひさぐ街の女があふれはじめた。わずかな米や小麦を得るために、物々交換の手段としてからだを提供するといったこともめずらしくなかったと思われる。
この冬(1946年1月)には、上野や日比谷だけでも千数百人の女性がひしめいていた。翌年の2月には、占領軍によって公娼制の廃止が発令されたが、現実には敗戦直後から、いたるところでこうした風景が見られた。

戦時中は、二〇件程度にすぎなかった若い娘の家出が、敗戦直後から一〇〇件を越えて、1946年7月には、六〇〇件を突破した。