【7】
その夜、私は、手もとにあった配給の大豆二合を、手拭いを縫いあわせた袋につめた。翌日、早朝、その袋を抱えて、大森駅から上野に向かった。
母の宇免が、栃木県黒磯の山奥に疎開していたので、とりあえず、私が身辺についていたかった。敗戦の当日から交通網が麻痺して横浜方面行きの電車も動かないという。さまざまなデマが飛びかっている。
日本は、これからどうなるのだろうか。そういう思いは、自分がこれからどうなるのだろうか、という思いとつながっていた。
私は知るよしもなかったが、母は、敗戦を知ってすぐに、疎開先で所持品を全部売り払い、米、芋などの食料を買い込んで、その足で、東京に向かっていた。
一方、私は、逆に黒磯をめざしていた。
このときのことは、長編、「おお季節よ、城よ」に書いた。
上野駅は、東京から地方に向かう群衆が押し寄せていた。列車のダイヤが狂って、この日の始発がプラットフォームに入ったのは10時頃だった。
無数の人たちが乗り込んだが、悲鳴や怒号があがった。私などは乗り込むこともできなかった。
たまたま隣りに、土浦の海軍航空隊から脱走してきた予科練の生徒がいたので、ふたりで協力して、列車の屋根によじ登った。私たちを見た人たちが、つぎつぎに屋根にあがりはじめた。
飲まず食わずで、黒磯にたどり着いた私は疲労していた。母が入れ違いに東京に向かったと知ったとき、思わず笑いだした。母はこれと思い立ったらすぐに行動力する女だったから、敗戦を知って、すぐさま身辺を整理して、東京にもどろうと決心したに違いない。
私は母の借りた部屋で数時間仮眠をとった。
母が頼って行った人の好意で、わずかながらイモ、コメなどを手に入れたので、私は食料の買い出しに行ったことになる。それだけでも、黒羽にきた意味はある。
私は黒羽からまたひとりで歩きつづけた。
黒磯に戻ったときは、月の位置がずいぶん変わった。しかし、この美しさはいつまでも心に残った。
この夜明けに私が見たのが満月だったかどうか、おぼえていない。ただ、もはや、戦争はない。そう思いつめて歩きつづけた。
一刻も早く東京に戻りたかった。黒羽で、宇都宮の陸軍部隊が反乱を起こしたというウワサを聞いたのだった。
ふたたび黒羽から上野をめざした。むろん、切符が手に入るはずもない。深夜の黒磯の駅にも、おびただしい人数の乗客が押し寄せていた。敗戦翌日から鉄道の混乱がつづいている。各地に、徹底抗戦派が蜂起して、軍隊が東京に向かっているというデマが飛んでいた。東北線のダイヤもみだれて、各地の疎開先から上京しようとする人々があふれていた。私はまたもや無賃乗車で、食料と水だけをかかえて、汽車にもぐり込んだ。この列車も、それこそ立錐の余地もない混雑ぶりだった。
途中で、運転手が逃亡したため、乗客の数人が汽罐車にもぐり込み、石炭を汽罐に放り込んで走らせたという。これは途中の上尾駅あたりで、前の車両からつたえられてきた。
上野についたのは何時頃だったのか。またしてもおびただしい群衆がプラットフォームにあふれていた。駅の改札に駅員の姿はなく、敗戦直後の混乱が鉄道の駅のすさまじい混雑にあらわれていた。