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       【6】

敗戦の日の晩、私は、両親の部屋(6畳)と、私の部屋(1畳)の遮光幕をはずした。

これも説明が必要で――戦時中は、防空上の措置として、室内照明の周囲に黒い遮光幕をつけることが義務化された。黒い布や、円筒状にしたボール紙に墨を塗って、電灯のまわりを蔽った。電灯の輝度は、せいぜい10ワット、その光も直径わずか数十センチの範囲で、食卓を照らす程度のものだった。日没以後、全国の都市、村落すべてが、まったくの闇にとざされるのだった。
我が家でも、せいぜい50センチ平方程度だけ食卓を照らす電灯の明るさで、食事をしたり本を読むのだった。
わずかでも光が漏れたりすれば、たちまち、憲兵や、警察官、警防団の連中が飛んできて、厳重に注意する。だから、東京にかぎらず、全国が暗黒に包まれるのだった。

電気のスィッチを入れた瞬間、室内が光り輝いた。光はこんなに明るいものだったのか。私は、はじめて見る光に感動した。せいぜい10ワットの電球なのに、眼がくらむような輝度だった。

この日、室内の照明を全部つけたのは、我が家がいちばん早かった。

我が家が照明をつけたため、近くでも、つぎつぎに遮光幕を外す家が出てきた。
7時頃、この地区の警防団の団長が血相を変えて飛んできた。

「空襲警報が出るかも知れないのに、遮光幕を外すとは、なにごとだ」
という。
私が応対に出た。
「戦争は終わったんだぞ。電気を消す必要もなくなったんだ」

戦時中、憲兵や特高警察などがおそろしい恐怖の集団だったが、そのつぎにおそろしかったのは、隣組の組長や、その地区の自警団、消防団の連中だった。
この警防団の男は、軽蔑しきった顔つきで私を睨みつけていたが、私はひるまなかった。そのオジサンはそのまま退散した。
私の家の前の清水さんの家も、この夜、電気をつけた。その奥の、寿岳 文章先生の家も、立花子爵の邸宅も遮光幕を外して、それまで黒い塊りにしか見えなかった木々が、広壮な大名屋敷の庭園の風情をみせていた。

やがて私は外に出た。この夜、山王二丁目で照明が煌々と輝いたのは、せいぜい二割程度だった。
まだ、全部の家が遮光幕を外したわけではない。しかし、大森から大井にかけて、あかるい照明をとり戻した家並みが点々とつづいている。これを見ただけでも、ほんとうに戦争が終わったという実感があった。

この夜、栃木、黒磯に単身疎開している母の宇免のところに行く決心をした。戦争は終わったが、その夜、さまざまなデマが飛んで、全国各地に不穏な動きが起きはじめているようだった。このままでは内戦状態になるかも知れない。