【3】
1945年8月15日。
この日、昭和天皇みずから放送をするとしらされていた。
私は、何も考えない少年だったから、この放送で、天皇が国民に玉砕を宣言かも知れないと思った。
この放送は、立花邸のラジオで聞いたのだった。
戦災のためラジオももっていない人々のため、当主の弟にあたる立花 忠保さんが、立花家の庭を開放してくれた。わざわざラジオの音量をあげてくれたので、ひろい庭先に集まった十数人が天皇の声を聞いたのだった。
今でも、歌人、筏井 嘉一の短歌を思い出す。
敗るるべく国敗れたる宿命の涙をぬぐふ天日のもと
天皇の「終戦の詔勅」を聞いた瞬間の一首。
私は、はじめて昭和天皇の肉声を聞いて驚きをおぼえた。ひどく女性的な声だったし、それまで聞いたことのない抑揚だったから。
その驚きが先に立って、「敗るるべく国敗れたる宿命」などという考えはうかばなかった。涙も流れなかった。放送の途中で、この戦争が終わったと知って名状しがたい感情がふきあがってきた。
戦争というものは終わるものなのか。茫然としていた。戦争が終わるなんて知らなかったなあ。
これほど悲惨な戦争が天皇の放送ひとつで終わった。あり得べからざる事態に思えた。同時に、これで戦争が終わったという歓喜がワーッと胸にこみあげてきた。
勝敗はぜひなきものをいくさすみておのずからいづる息のふかさよ
「おのずからいづる息のふかさ」は、私もおなじだったかも知れない。しかし、私の内部には筏井 嘉一とはまるで違った思いがあった。「勝敗はぜひなきもの」などとはまったく考えなかったし、日本がひたすら敗戦に向かってころげ落ちて行ったような気がしたのだった。
敗戦の日、私は朝から近所の建物の強制撤去の作業にかり出されていた。空襲がはげしくなったため、まだ被害を受けていない地域では、特に指定された家屋が、緊急にとり壊されることになっていた。焼夷弾による延焼をふせぐ措置という。
この作業には、一個分隊ほどの兵士もかり出されていた。
戦争が終わったのだから、この作業もただちに中止されるのが当然だろう。今なら誰しもそう考えるだろう。ところが、天皇の放送を聞いたあと、作業にあたった山王二丁目の人々は、誰ひとり作業を中止しなかった。何もいわず、ただ黙々と作業をつづけた。
戦時中の私たちは、いつも上からの命令におとなしく従う習性が身についていたのだろう。あるいは、突然の敗戦で、誰しも何も考えられなくなっていたのか。敗戦という事態にとっさに適応できず、まるで虚脱状態のまま作業に戻ったにちがいない。
こうして無傷の邸宅が、天皇の放送かあって1時間後には引き倒されたのだった。
この作業が終わったとき、若い兵士が私ともうひとりの少年を呼びとめた。
「これからは、きみたちの時代だからな。がんばってくれよ」
彼が終戦の勅語を痛恨の思いで聞いたことは疑いもない。声を殺して、涙を流し、目を赤くしながら作業をつづけたらしかった。真夏の作業なので、シャツ一枚、下は軍袴、ゲートル、軍靴だったから階級はわからない。おそらく大学在学中に召集され、下士官になったばかりで敗戦を迎えたのか。
私は、黙って若い兵士に軽く頭をさげて、その場を離れた。涙と汗にまみれた若い兵士もそれ以上ことばを返さなかった。
私は、このときになって、はじめて不遜な思いがふきあげてきた。
「そうだ、戦争は終わった。これからはおれたちの時代になる」
そんな思いが胸にあふれてきた。