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       【2】

敗戦前後の時期、私は大森の山王二丁目に住んでいた。
現在の大森駅前は、戦前とはまったく変わって、駅のすぐ前の山王神社の階段も、少し左にあった暗闇坂も消えている。もともと坂の多い地形だが、戦災をうけなかった土地も、すっかり再開発されて、マンション、アパートなどが多い。いかにも高級住宅地らしい雰囲気の街になっている。

山王二丁目の地番は変わっていないが、明治時代に区長だった立花子爵の宏壮な屋敷のあったあたりも、すっかり変わってしまった。やはり高級マンションが立ち並び、私が親しくしていた立花 忠保さんのご子孫と思われる立花家の邸宅と、それに隣接して、多くの住宅が建てられている。

立花邸の隣りに有名な医院があった。りっぱな門構えの豪邸だったが、このお医者さんの令嬢が「文学座」の研究生だった。
私の友人、椎野 英之の家も山王二丁目で、歩いて7分ばかりの距離だった。

山王二丁目に住んでいたと聞けば――誰しも高級な住宅地を連想して、私が戦時中さして生活に苦労しなかった少年と想像するだろう。
とんでもない。

私たちは極端に窮乏していた。それは、今でこそ苦渋にみちたものということができるが、当時は、そんなことばではすまない、その日生きるか死ぬかわからない、切実な苦しみにさらされていた。

敗戦前後に私たちの住んだ家は西洋館だったが、連日の空襲かはげしくなったため、そこの家族が疎開して空き家になった。外見は古風で趣きのある洋館だが、内部はガタガタのお化け屋敷だった。
戦災をうけた叔父が、たまたまこの家を見つけた。叔父は零細企業の町工場で軍用のボール箱を作る下請けで、仕事を再開しようとしていた。町工場の職人たちをかかえていた叔父の一家と、私の一家で、20人近くの共同生活だったから、まるで難民生活といってもよかった。

父は、「石油公団」に徴用されていたし、私は勤労動員で、川崎の工場で働いていた。そこで、母は、知り合いをたよって、栃木県黒磯の奥に疎開して食料を確保することになった。妹は、埼玉県に疎開した祖母のところに移って、学業をつづけることになった。
一家離散したのだった。

私は着のみ着のままだった。動員先の工場で支給された作業服を着て、食事もことかく状態で、飢えて痩せこけた浮浪兒のように生きていた。

1945年の晩春、ほとんど連日のようにアメリカ空軍の空襲がつづいていた。
東京、渋谷、目黒が灰塵と化した直後に、横浜は、B29・500機、ロッキードP51・100機の空襲で壊滅した。いまの人たちには想像もつかない事態だと思う。
これほど多数の巨大な爆撃機の空襲に、戦闘機が護衛についている、ということは、日本には、これを迎撃する航空戦力がまったくないことを意味する。すでに制空権を失っているとすれば、敗戦は必至と考えるべきだろう。
ところが、大本営は、きまって損害は軽微と発表していた。(こういう隠蔽体質は、東日本大震災で、大被害をうけた福島の原子力発電所の被災状況や、放射能漏れの数値をごまかしつづけた「東京電力」にもうけつがれている。)
そして、6月に入って、阪神地方が一日おきに大空襲でやられ、名古屋もすさまじい被害を受けた。

敗戦前の日々、文芸科の上級生たちは三鷹の「中島飛行機」で働いていたが、この工場も壊滅したため、生き残った学生たちは、川崎で働いている私たちと下級生と合流したのだった。そのなかに、椎野 英之がいた。(椎野については、もう少しあとで書く。)