1611


【7】

 

その夜、私は、手もとにあった配給の大豆二合を、手拭いを縫いあわせた袋につめた。翌日、早朝、その袋を抱えて、大森駅から上野に向かった。
母の宇免が、栃木県黒磯の山奥に疎開していたので、とりあえず、私が身辺についていたかった。敗戦の当日から交通網が麻痺して横浜方面行きの電車も動かないという。さまざまなデマが飛びかっている。
日本は、これからどうなるのだろうか。そういう思いは、自分がこれからどうなるのだろうか、という思いとつながっていた。

私は知るよしもなかったが、母は、敗戦を知ってすぐに、疎開先で所持品を全部売り払い、米、芋などの食料を買い込んで、その足で、東京に向かっていた。
一方、私は、逆に黒磯をめざしていた。

このときのことは、長編、「おお季節よ、城よ」に書いた。
上野駅は、東京から地方に向かう群衆が押し寄せていた。列車のダイヤが狂って、この日の始発がプラットフォームに入ったのは10時頃だった。
無数の人たちが乗り込んだが、悲鳴や怒号があがった。私などは乗り込むこともできなかった。
たまたま隣りに、土浦の海軍航空隊から脱走してきた予科練の生徒がいたので、ふたりで協力して、列車の屋根によじ登った。私たちを見た人たちが、つぎつぎに屋根にあがりはじめた。

飲まず食わずで、黒磯にたどり着いた私は疲労していた。母が入れ違いに東京に向かったと知ったとき、思わず笑いだした。母はこれと思い立ったらすぐに行動力する女だったから、敗戦を知って、すぐさま身辺を整理して、東京にもどろうと決心したに違いない。
私は母の借りた部屋で数時間仮眠をとった。

母が頼って行った人の好意で、わずかながらイモ、コメなどを手に入れたので、私は食料の買い出しに行ったことになる。それだけでも、黒羽にきた意味はある。
私は黒羽からまたひとりで歩きつづけた。
黒磯に戻ったときは、月の位置がずいぶん変わった。しかし、この美しさはいつまでも心に残った。

この夜明けに私が見たのが満月だったかどうか、おぼえていない。ただ、もはや、戦争はない。そう思いつめて歩きつづけた。
一刻も早く東京に戻りたかった。黒羽で、宇都宮の陸軍部隊が反乱を起こしたというウワサを聞いたのだった。

ふたたび黒羽から上野をめざした。むろん、切符が手に入るはずもない。深夜の黒磯の駅にも、おびただしい人数の乗客が押し寄せていた。敗戦翌日から鉄道の混乱がつづいている。各地に、徹底抗戦派が蜂起して、軍隊が東京に向かっているというデマが飛んでいた。東北線のダイヤもみだれて、各地の疎開先から上京しようとする人々があふれていた。私はまたもや無賃乗車で、食料と水だけをかかえて、汽車にもぐり込んだ。この列車も、それこそ立錐の余地もない混雑ぶりだった。
途中で、運転手が逃亡したため、乗客の数人が汽罐車にもぐり込み、石炭を汽罐に放り込んで走らせたという。これは途中の上尾駅あたりで、前の車両からつたえられてきた。

上野についたのは何時頃だったのか。またしてもおびただしい群衆がプラットフォームにあふれていた。駅の改札に駅員の姿はなく、敗戦直後の混乱が鉄道の駅のすさまじい混雑にあらわれていた。

1610

       【6】

敗戦の日の晩、私は、両親の部屋(6畳)と、私の部屋(1畳)の遮光幕をはずした。

これも説明が必要で――戦時中は、防空上の措置として、室内照明の周囲に黒い遮光幕をつけることが義務化された。黒い布や、円筒状にしたボール紙に墨を塗って、電灯のまわりを蔽った。電灯の輝度は、せいぜい10ワット、その光も直径わずか数十センチの範囲で、食卓を照らす程度のものだった。日没以後、全国の都市、村落すべてが、まったくの闇にとざされるのだった。
我が家でも、せいぜい50センチ平方程度だけ食卓を照らす電灯の明るさで、食事をしたり本を読むのだった。
わずかでも光が漏れたりすれば、たちまち、憲兵や、警察官、警防団の連中が飛んできて、厳重に注意する。だから、東京にかぎらず、全国が暗黒に包まれるのだった。

電気のスィッチを入れた瞬間、室内が光り輝いた。光はこんなに明るいものだったのか。私は、はじめて見る光に感動した。せいぜい10ワットの電球なのに、眼がくらむような輝度だった。

この日、室内の照明を全部つけたのは、我が家がいちばん早かった。

我が家が照明をつけたため、近くでも、つぎつぎに遮光幕を外す家が出てきた。
7時頃、この地区の警防団の団長が血相を変えて飛んできた。

「空襲警報が出るかも知れないのに、遮光幕を外すとは、なにごとだ」
という。
私が応対に出た。
「戦争は終わったんだぞ。電気を消す必要もなくなったんだ」

戦時中、憲兵や特高警察などがおそろしい恐怖の集団だったが、そのつぎにおそろしかったのは、隣組の組長や、その地区の自警団、消防団の連中だった。
この警防団の男は、軽蔑しきった顔つきで私を睨みつけていたが、私はひるまなかった。そのオジサンはそのまま退散した。
私の家の前の清水さんの家も、この夜、電気をつけた。その奥の、寿岳 文章先生の家も、立花子爵の邸宅も遮光幕を外して、それまで黒い塊りにしか見えなかった木々が、広壮な大名屋敷の庭園の風情をみせていた。

やがて私は外に出た。この夜、山王二丁目で照明が煌々と輝いたのは、せいぜい二割程度だった。
まだ、全部の家が遮光幕を外したわけではない。しかし、大森から大井にかけて、あかるい照明をとり戻した家並みが点々とつづいている。これを見ただけでも、ほんとうに戦争が終わったという実感があった。

この夜、栃木、黒磯に単身疎開している母の宇免のところに行く決心をした。戦争は終わったが、その夜、さまざまなデマが飛んで、全国各地に不穏な動きが起きはじめているようだった。このままでは内戦状態になるかも知れない。

 

 

1609

      【5】

戦争が終わった日の午後、私は椎野 英之の部屋に遊びに行った。

思いがけないことに、椎野の部屋に訪問客がいた。若くて美しい女性だった。
戦時中は、どこの家庭の娘たちもモンペ姿だったが、このお嬢さんは、戦争が終わった日に、すらりとしたからだを、ゆたかなワンピースでつつんでいた。
美貌だったが、なによりも表情があかるかった。魅力のある女に共通する一つの特徴は、例外なく明るく、さわやかな表情を見せていることだが、このお嬢さんは、モンペ姿の娘たちの、思いつめたような、緊張しきった表情がない。
その服装から、彼女が「文学座」の研究生とわかった。

椎野が私を紹介してくれたが、彼女は私には眼もくれなかった。佐々木というお嬢さんだった。戦争が終わった瞬間に、若い娘がこれほどあざやかに変身するものか。そんな驚きがあった。いまなら、それほど挑発的には見えなかったにちがいない。しかし、佐々木 瑛子のドレスは、胸のラインぎりぎりまで開いていた。ブラジャーはわざとつけていない。ウェストがきゅっとしまって、フレヤーが波のようにひろがって、いかにもたおやかに見えた。私は、椎野がこんなに若くて美しいお嬢さんと親しくしていることに驚いた。

彼女が椎野を訪れたのは――戦争が終わったのだから、すぐにも劇団の再出発を考えなければいけないという相談だった。とりあえず、久保田 万太郎先生、岸田 国士先生に連絡をとりたい、という。彼女の話は、かなり具体的なもので、私などが名前だけ知っている芸術家、俳優、女優たちの消息がつぎつぎに出てきた。

話の途中で、すさまじい爆音が聞こえはじめた。空襲の恐怖は、誰にも共通していたが、この日、空襲警報が出るはずもなかった。B29の爆音なら、はるか上空から聞こえてくるはずだったが、この爆音はすさまじい速さで、大森上空を疾走してくる。アメリカ空軍機が、早くも東京を偵察にきたのかと思った。
私は、その機体を見ようとして、椎野の部屋の窓から乗り出した。
爆音の正体は――海軍航空隊の戦闘機、2機だった。
おそらく敗戦を知った土浦の海軍航空隊の一部が、戦闘継続を主張して、示威運動を起こしたにちがいない。
佐々木 瑛子は、窓からのり出して、大声で、

「もう、戦争は終わったのよ!」

声をあげた。私は、この少女の純真な怒りに驚いた。と同時に、その驕慢な姿勢に驚かされた。
戦闘機は驚くほどの低空に飛来して、瞬時に飛び去った。

しばらくして、私は椎野と佐々木 瑛子を残して帰宅した。

1947年12月、劇作家、内村 直也は戦後最初のラジオ・ドラマ、「帰る故郷」を書いた。このドラマに佐々木 瑛子が出ている。この放送劇は、「文学座」のために書いたもので、杉村 春子、三津田 健、宮口 精二、中村 伸郎。新人として新田 瑛子、伊藤 聡子、賀原 夏子が出た。
このドラマは成功した。
この放送劇で、内村 直也は、戦後のラジオ、ドラマのパイオニアになってゆく。

後年、佐々木 瑛子はある作家と結婚したが、やがて悲劇的な死をとげた。作家は、この事件によって重大な影響をうけて、一時は作家としてのキャリアーも終わったとまで覚悟したが、その後、立ち直った。
ここではこれ以上ふれない。

 

 

 

1608

     【4】

少年時代の私には、少数ながら大切な友人がいた。
小川 茂久、覚正 定夫、椎野 英之。

小川は、後年、明治の仏文の教授になった。覚正 定夫は、はじめ仏文の助手だったが、私の紹介で、安部 公房と親しくなり、左翼の映画評論家、柾木 恭介として知られる。椎野 英之は、「東宝」のプロデューサーになる。

小川 茂久が大森に住んでいたので、なにかと世話になった。蔵書が全部焼けたため、読む本がなかった私に、有島 武郎の全集や、鴎外などを贈ってくれたのは、小川 茂久だった。

小川については何度か書いたが、椎野 英之のことは、これまでほとんど書く機会がなかった。1945年8月、たまたま、おなじ山王に椎野 英之が住んでいたので、彼と親しくなった。

椎野 英之は、私より二期上。もともと俳優志望で、戦時中に「文学座」の研究生になっていた。同期に、荒木 道子、丹阿弥 谷津子、新田 瑛子、賀原 夏子など。
「文学座」の研究生として、ジュリアン・リュシェールの「海抜2300メートル」(原 千代海訳)の勉強会に出た。(この勉強会が、戦後すぐからの「文学座」アトリエ公演につながっている。)

私が見た舞台では、森本 薫の「怒濤」(1944年)で、椎野はガヤ(その他大勢)で出た。セリフはたったひとことだけだったが。

1945年5月、森本 薫の「女の一生」が渋谷の「東横」で上演されたが、わずか4日目、大空襲で劇場が焼亡したため、「文学座」の活動も中止された。
私は、この公演を見ている。戦時中に見た最後の新劇の舞台だった。戦時中に「文学座」を見た人も、もうほとんどいないだろう。東京は一面の焼け野原で、劇場らしい劇場はなくなっていた。もともと映画館だった渋谷の「東横」を改装して舞台にしたのだった。しかも、連日の空襲下で、夜間の公演はできず、マチネー中心の舞台で、4日目には劇場ばかりか、渋谷から世田谷、杉並にかけて焼き尽くされたのだった。

椎野のクラスは勤労動員で、石川島の造船所で働いていた。私たち下級生は川崎の「三菱石油」の工場で働いていた。ところが3月の大空襲で石川島の工場が壊滅したため、椎野たちも川崎の「三菱石油」の工場に合流した。
私が親しくなったのは、このときからだが、その後、椎野は召集された。小川も 敗戦の直前に招集された。私も、9月に入隊ときかされていたが、8月15日に敗戦を迎えたのだった。

椎野の家は、あるいて7、8分の距離だったので、毎日遊びに行った。何を語りあったのか、もうおぼえていない。しかし、椎野のおかげでいろいろな戯曲を読むことになった。
椎野は、あまり本を読まなかった。本棚にならんでいるのは、ガリ版の台本が多く、あとは、戯曲ばかりが20冊ばかり。そのなかに「にんじん」や「ドミノ」があった。
椎野が好きな劇作家はロシアのキルションだったが、日本の劇作家では、久保田 万太郎だった。私は、浅草の劇場で喜劇の台本めいたものを書いたことがあった。そんなことから話が合って、椎野が眼を輝かせた。
年下の私が、戯曲にかぎらず、いろいろなジャンルの本を読んでいると知って、何かわからないことがあると私に聞くようになった。

 

 

1607

       【3】

1945年8月15日。

この日、昭和天皇みずから放送をするとしらされていた。
私は、何も考えない少年だったから、この放送で、天皇が国民に玉砕を宣言かも知れないと思った。

この放送は、立花邸のラジオで聞いたのだった。

戦災のためラジオももっていない人々のため、当主の弟にあたる立花 忠保さんが、立花家の庭を開放してくれた。わざわざラジオの音量をあげてくれたので、ひろい庭先に集まった十数人が天皇の声を聞いたのだった。

今でも、歌人、筏井 嘉一の短歌を思い出す。

敗るるべく国敗れたる宿命の涙をぬぐふ天日のもと

天皇の「終戦の詔勅」を聞いた瞬間の一首。
私は、はじめて昭和天皇の肉声を聞いて驚きをおぼえた。ひどく女性的な声だったし、それまで聞いたことのない抑揚だったから。
その驚きが先に立って、「敗るるべく国敗れたる宿命」などという考えはうかばなかった。涙も流れなかった。放送の途中で、この戦争が終わったと知って名状しがたい感情がふきあがってきた。
戦争というものは終わるものなのか。茫然としていた。戦争が終わるなんて知らなかったなあ。
これほど悲惨な戦争が天皇の放送ひとつで終わった。あり得べからざる事態に思えた。同時に、これで戦争が終わったという歓喜がワーッと胸にこみあげてきた。

勝敗はぜひなきものをいくさすみておのずからいづる息のふかさよ

「おのずからいづる息のふかさ」は、私もおなじだったかも知れない。しかし、私の内部には筏井 嘉一とはまるで違った思いがあった。「勝敗はぜひなきもの」などとはまったく考えなかったし、日本がひたすら敗戦に向かってころげ落ちて行ったような気がしたのだった。

敗戦の日、私は朝から近所の建物の強制撤去の作業にかり出されていた。空襲がはげしくなったため、まだ被害を受けていない地域では、特に指定された家屋が、緊急にとり壊されることになっていた。焼夷弾による延焼をふせぐ措置という。
この作業には、一個分隊ほどの兵士もかり出されていた。

戦争が終わったのだから、この作業もただちに中止されるのが当然だろう。今なら誰しもそう考えるだろう。ところが、天皇の放送を聞いたあと、作業にあたった山王二丁目の人々は、誰ひとり作業を中止しなかった。何もいわず、ただ黙々と作業をつづけた。

戦時中の私たちは、いつも上からの命令におとなしく従う習性が身についていたのだろう。あるいは、突然の敗戦で、誰しも何も考えられなくなっていたのか。敗戦という事態にとっさに適応できず、まるで虚脱状態のまま作業に戻ったにちがいない。
こうして無傷の邸宅が、天皇の放送かあって1時間後には引き倒されたのだった。

この作業が終わったとき、若い兵士が私ともうひとりの少年を呼びとめた。

「これからは、きみたちの時代だからな。がんばってくれよ」

彼が終戦の勅語を痛恨の思いで聞いたことは疑いもない。声を殺して、涙を流し、目を赤くしながら作業をつづけたらしかった。真夏の作業なので、シャツ一枚、下は軍袴、ゲートル、軍靴だったから階級はわからない。おそらく大学在学中に召集され、下士官になったばかりで敗戦を迎えたのか。
私は、黙って若い兵士に軽く頭をさげて、その場を離れた。涙と汗にまみれた若い兵士もそれ以上ことばを返さなかった。

私は、このときになって、はじめて不遜な思いがふきあげてきた。
「そうだ、戦争は終わった。これからはおれたちの時代になる」
そんな思いが胸にあふれてきた。

 

 

 

1606

       【2】

敗戦前後の時期、私は大森の山王二丁目に住んでいた。
現在の大森駅前は、戦前とはまったく変わって、駅のすぐ前の山王神社の階段も、少し左にあった暗闇坂も消えている。もともと坂の多い地形だが、戦災をうけなかった土地も、すっかり再開発されて、マンション、アパートなどが多い。いかにも高級住宅地らしい雰囲気の街になっている。

山王二丁目の地番は変わっていないが、明治時代に区長だった立花子爵の宏壮な屋敷のあったあたりも、すっかり変わってしまった。やはり高級マンションが立ち並び、私が親しくしていた立花 忠保さんのご子孫と思われる立花家の邸宅と、それに隣接して、多くの住宅が建てられている。

立花邸の隣りに有名な医院があった。りっぱな門構えの豪邸だったが、このお医者さんの令嬢が「文学座」の研究生だった。
私の友人、椎野 英之の家も山王二丁目で、歩いて7分ばかりの距離だった。

山王二丁目に住んでいたと聞けば――誰しも高級な住宅地を連想して、私が戦時中さして生活に苦労しなかった少年と想像するだろう。
とんでもない。

私たちは極端に窮乏していた。それは、今でこそ苦渋にみちたものということができるが、当時は、そんなことばではすまない、その日生きるか死ぬかわからない、切実な苦しみにさらされていた。

敗戦前後に私たちの住んだ家は西洋館だったが、連日の空襲かはげしくなったため、そこの家族が疎開して空き家になった。外見は古風で趣きのある洋館だが、内部はガタガタのお化け屋敷だった。
戦災をうけた叔父が、たまたまこの家を見つけた。叔父は零細企業の町工場で軍用のボール箱を作る下請けで、仕事を再開しようとしていた。町工場の職人たちをかかえていた叔父の一家と、私の一家で、20人近くの共同生活だったから、まるで難民生活といってもよかった。

父は、「石油公団」に徴用されていたし、私は勤労動員で、川崎の工場で働いていた。そこで、母は、知り合いをたよって、栃木県黒磯の奥に疎開して食料を確保することになった。妹は、埼玉県に疎開した祖母のところに移って、学業をつづけることになった。
一家離散したのだった。

私は着のみ着のままだった。動員先の工場で支給された作業服を着て、食事もことかく状態で、飢えて痩せこけた浮浪兒のように生きていた。

1945年の晩春、ほとんど連日のようにアメリカ空軍の空襲がつづいていた。
東京、渋谷、目黒が灰塵と化した直後に、横浜は、B29・500機、ロッキードP51・100機の空襲で壊滅した。いまの人たちには想像もつかない事態だと思う。
これほど多数の巨大な爆撃機の空襲に、戦闘機が護衛についている、ということは、日本には、これを迎撃する航空戦力がまったくないことを意味する。すでに制空権を失っているとすれば、敗戦は必至と考えるべきだろう。
ところが、大本営は、きまって損害は軽微と発表していた。(こういう隠蔽体質は、東日本大震災で、大被害をうけた福島の原子力発電所の被災状況や、放射能漏れの数値をごまかしつづけた「東京電力」にもうけつがれている。)
そして、6月に入って、阪神地方が一日おきに大空襲でやられ、名古屋もすさまじい被害を受けた。

敗戦前の日々、文芸科の上級生たちは三鷹の「中島飛行機」で働いていたが、この工場も壊滅したため、生き残った学生たちは、川崎で働いている私たちと下級生と合流したのだった。そのなかに、椎野 英之がいた。(椎野については、もう少しあとで書く。)

 

1605


【1】

昨年の秋、岩田 英哉という人から、思いがけない手紙をいただいた。岩田さんとは面識がない。
少し説明が必要になる。

岩田さんは安部 公房の熱心な研究家で、独力で安部 公房に関するリーフレット、「もぐら通信」を発行しているのだった。私は少年時代に安部 公房と親しかったので、このブログで、安部 公房の名をあげたことがあった。それに目にとめた岩田さんが、「もぐら通信」に転載したいといってきたのだった。

私において否やはない。

やがて「もぐら通信」に拙文が掲載された。これは、うれしいことだった。

その後、岩田さんからまた手紙をいただいた。そのなかに――「更に安部 公房との想い出をたくさんお書きいただけないでしょうか」とあった。
私は少し驚いた。私などがいまさら安部 公房について書くのは僣越至極、また、何か書いたところで誰も関心をもつはずがない。そう思った。
そのとき、ふと気がついたのだが――「戦後」すぐに私が知りあった、たくさんの文学者、私と同時代の作家、評論家たちも、ほとんどが鬼籍に移っている。いまさらながら無常迅速の思いがあった。

埴谷 雄高、野間 宏、花田 清輝などの先輩たちだけでなく、私と同世代の関根 弘、針生 一郎、いいだ もも、さらに小川 徹、森本 哲郎、矢牧 一宏までが亡くなっている。
やはり、「戦後」すぐの安部君について少しでも書いておいたほうがいいかも知れない。そう思いはじめた。

安部君のことを思い出しているうちに、「近代文学」の人びとをいろいろ思い出した。そればかりではなく、いろいろな時期に出会った人びと、さらには敗戦前後のことがよみがえってきて、収拾がつかなくなった。

作家の回想というのもおこがましい。
私の内面につぎつぎにふきあげてくる思い出を書きとめておくだけだが、時あたかも戦後70年、まだ記憶していることを気ままに書きとめてみよう。