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滝沢馬琴の硯塚、筆塚も行って見た。青雲寺。かつては花見寺とも呼ばれた名刹(めいさつ)。広重や、「江戸名所図絵」にも描かれた“花”の名所という。むろん、そんなおもかげもない。

境内には馬琴の碑ばかりではなく、船繋ぎの松の碑、狂歌の安井甘露庵の碑などもある。
甘露庵はへたな狂歌だが、それでも江戸の風景が眼に浮かぶ。

「雲と雪と五分五分に見える山桜もう一寸も目をはなされじ」

ついでに、作家の山東京伝の墓。墓は両国の回向院。弟の京山が建てたもの。京山も作家。
山東京伝、本名、岩瀬醒(さむる)。名前がいい。醒めているのだから。江戸城、紅葉山の東に住んでいて「山東」、京橋南伝馬町に住んでいたから「京伝」。
京山、名は岩瀬百樹(ももき)、あざなは鉄梅。執筆堂として知られている。安政五年、当時のおそろしい流行病、コロリ(コレラ)にかかって亡くなった。
境内には、大相撲ゆかりの力塚の碑や大火の石塔、安政の大地震の碑がある。もっとも、ネズミ小僧次郎吉の墓のほうがよく知られている。また、寛政五年に建てられた水子塚がある。

西日暮里、養福寺、真言宗・豊山派。山崎 北華の墓がある。号は、不量軒、無思庵、捨楽斎、確蓮坊、世に隠れて自堕落先生と称した。その碑銘にいわく、
「若年ニシテ諸芸学トイエドモ不極心ニ欲ルホド於テ足リヌトシテ書ヲ読メドモ解スル事ヲセズ是故ニ無学ニシテ無能ナリ」と。
境内に、西鶴の百回忌にちなんだ梅翁花樽の碑。発起人、谷素外。左右に雪と月の碑。

浅草聖堂と称する誠向山正法寺。「都内で初めての近代的な屋内型墓所の聖堂」という愚劣寺。蔦屋十三郎の墓。石川雅望、太田南畝の達意の名文章。

橋場には平賀源内の墓。
晩年の句に源内の自嘲がひびいている。

功ならず名ばかり遂げて年暮れぬ

私は、いつも若い友人のようすをうかがって彼の体調を気にしていた。彼が、ときどきからだの痛みに顔をしかめるようになって、散歩どころではなくなったのはしばらくあとのことだった。