この夏、来日したロシアのオペラ・シンガーのコンサート。
6月3日、「東京芸術劇場」で初日。翌日、千葉、「文化プラザ」のコンサート。
ロシアのマリア・マクサコワ。
演奏は、ヴァレリー・ヴォロナの指揮するモスクワの「モスクヴィスキー・マラジョージヌイ室内オーケストラ」。
ヴァレリー・ヴォロナはもともとヴァイオリニストで、この室内オーケストラの、芸術監督、首席指揮者という。メンバーは若い人ばかりだった。
唐突でヤボな話だが――人並みに、旧ソヴィエトの芸術家に関心を持ってきた私は、この「室内オーケストラ」の演奏を聞いて、スターリンの独裁や、愚劣な社会主義リアリズムの理論や、NKVD(秘密警察)のきびしい監視を知らない芸術家が育っていることを実感した。
特にシロフォンの演奏をした若者の、それこそアクロバテイックな技巧に驚嘆した。残念なことに名前がわからなかった。)
つい20年前までなら――この「室内オーケストラ」の演奏に対して、たちまち、「はたしてソヴィエト芸術とソヴィエト大衆にこのような「室内オーケストラ」が必要だろうか。」などという愚劣な批判が浴びせられたに違いない。
私の世代は、多少なりともソヴィエト式芸術論の高飛車で、紋切り型の口調を知っているだけに、音楽、絵画、演劇、バレエなどの新しい創造にたいして、いつもおなじ口調で、はげしい非難を浴びせたバカどものことを思い出す。
私は、「マラジョージヌイ」の若い人たちの演奏に、いきいきとしたロシアの「現在」を見届けたような気がした。
こういい直そうか。マラジョージヌイ室内オーケストラの演奏にこそ、あたらしいロシアの「声」が響いている、と。
おなじ意味で、マリア・マクサコワの歌に心から感動した。
旧ソヴィエト時代の芸術には見られない、のびやかな表現がマリア・マクサコワの歌にみなぎっていたからである。