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「自分の人生のいくつかの時期に、いつまでも忘れられない、意味深いシーンがある」
若い頃の私が書いた一節。

「これもいつか、テレビで、ルイ・ジュヴェを見た。ぼくは学生時代から、雑誌の原稿を書きはじめたのだが、当時、「ルイ・ジュヴェに関するノート」などという、愚にもつかないエッセイを書いたほど、この俳優に関心をもっていた。いまでも、機会があったら、この偉大な俳優の評伝を書いてみたいくらいなのだが」と書いているのだった。

それから4半世紀後に、評伝、「ルイ・ジュヴェ」を書いた。さすがに感慨なきを得なかった。

古い雑誌をひっくり返していて、こんな文章を見つけた。

佐藤忠男氏の「アメリカ映画論」もさることながら、中田耕治氏の「私の点鬼簿」、菊地章一氏の「私の昭和二十二年」は、この人たちならではのモニュメンタルなものと感銘した。中田氏は一九四七年の太宰治に触れておられるが、学生だったぼくは、一九四一年に文京区本郷千駄木町の小さな喫茶店で、何人かの二・三十歳台の男たちに囲まれた太宰氏を見たことがある。コ-ヒ-もそろそろ手に入りにくくなりはじめたころで、銭湯から下宿に帰る途中であった。菊地氏も一九四六年あたりの思い出をしておられる。そうしたものを読むうちに、ぼくも昔のことを「体験」として書いてみようかなと考えはじめた。

 

筆者は、木原 健太郎。「国立教育研究所」の名誉所員、創価大学講師。このエッセイ
は、「公評」(1997年7月号)に発表された「戦中・戦後の体験」の冒頭の部分。

こんな短い文章でも、私には、いろいろなことどもが折り重なって押し寄せてくる。
一九四一年の太宰治は見たことがなかったが、太宰治の作品は読みはじめていた。
ただし、「右大臣実朝」も、「正義と微笑」も、まだ出ていなかった。だから、「新ハ
ムレット」あたりから読みはじめたような気がする。

じつは、私はどこで「一九四七年の太宰治に触れ」たのかおぼえていない。戦後すぐに
太宰治に会える機会があったのに、生意気な私は会いに行かなかった。太宰治に関心がな
かった。太宰治には小川 茂久が会いに行った。

1941年の私。私は中学生だった。この年の12月にアメリカ相手の戦争がはじまった。