サマセット・モームの「劇場」を読み返している。
ヒロインは46歳になる名女優、「ジューリア」。小説のオープニングで、名女優を訪問した若者がいう。
「ぼくが見に行ったのは、芝居そのものではなく、あなたの演技なんです」
同席した夫の「マイケル」がいう。
「イギリス演劇華やかなりし頃だって、大衆は、芝居を見に行ったんじゃない。役者を見に行ったんだ。ケンブルや、シドンズ夫人が何をやるか問題じゃなかった。ただ、役者を見に行くことだけが問題だった」と。
こんな数行から、私の夢想がはてしなくひろがってゆく。
「忠臣蔵」六段目。「早野勘平」が、帰宅する。猟着を脱いで、浅黄、羽二重に着替える。
観客にうしろを見せて肌襦袢ひとつ。その背中に「お軽」が着物をかけてやる。袖に手を通す。「勘平」は正面をむいて前を袷、帯びをしめる。ただ、それだけの動きだが、羽左衛門(15世)のすっきり洗練されたてさばきのみごとさ。中学生の私でさえ、見ていてほれぼれとした。
私も歌舞伎を見に行ったのではない。役者を見に行ったのだった。
モームの「劇場」のヒロイン、名女優、「ジューリア」は、18歳で、プロデューサー(といっても、芝居に関することなら何でもこなす根っからの芝居者)「ジミー」に認められる。
「あんたは、あらゆる要素をそなえている。背丈はよし、体格はよし、顔はゴムみたいだし」
つまり、ゴムのように伸縮自在ということ。いまどきこんな褒めことばを聞いたら、たいていの女優さんはいやな顔をするだろう。こんなセリフひとつにも――「ジミー」の押しのふとさが見える。ニタリとしているモームの顔も。
「とにかく、そんな面(つら)こそ、女優にゃ打ってつけなんだ。どんな表情でも見せられる。美しくさえみせられるお顔(ハス)ってもんだ。心をかすめる、ありとあらゆる感情をジカにだせる顔ときている。あのドゥーゼのもっていた面(つら)だ。昨夜のあんた、自分じゃ気がついていねえが、そいでも、きらっきらっと、セリフが表情に出ていましたぜ」
ドゥーゼは、イタリアの名女優、「エレオノーラ・ドゥーゼ」。
ただし、ドゥーゼが「劇場」に出てくるのは、ここだけ。