宮 林太郎さんのことを思い出す。
「日記」に、私あての手紙が出ている。私が送った写真の礼状の最後の部分に、
「中田さん、ぼくが死んだときにはローソクを一本もってきてください。それに火をつけてください。それをぼくの一生だと思ってください。ローソクは小さいのでも適当に。ぼくには関係ないがローソクは燃える。あのローソク、ぼくには意味がないと思っていたが、あれでなかなか素晴らしい。彼は燃えるのです。それはやがて消えるのです。そのあいだあなたはそれを見守っていてください。まあそれぐらいの時間はあるでしょう。それが一人の男の人生です。燃えて消えてゆく。そいつです。燃えているあいだは「七年目の浮気」もする。悪事もする。やがて消えてゆきます。
どうもぼくは説教くさくなってきた。まあ、ローソクは持ってきてください。それに火をつけてください。そこで変な俳句、
一本のローソクなりし我身かな
愚かにも燃えてつきたる我身かな
こういうのは芭蕉も書けなかったと思います。
木枯らしや 夢はパリを駆けめぐる 宮 林太郎 」
今の私は、これを書いた宮 林太郎さんとほぼおなじ年齢になっている。
こういう手紙は私には書けない。たとえ書いたとしても送るべき相手がいない。
宮さんはほんとうに幸福な作家だったと思う。いろいろな意味で。むろん、私は宮さんを羨望しているわけではない。
宮さんは、この手紙のあと、また私のことにふれ、発売されたばかりの雑誌「フィガロ」を私のために一冊余分に買っておいて「中田耕治さんが我が家によってくれたときに、お渡しすることにしている。パリを少しばかり中田さんにおすそわけしたいからである」と書いている。
私は、何冊か「フィガロ」を頂戴した。宮さんが、「パリを少しばかりおすそわけして」くださる好意はうれしかったが、この雑誌で美しい肢体を見せている美女たちにまったく関心がなかった。
たとえば、コンコルド広場の正面に建っている「クリヨン」を見て、昂奮することはない。裏通りにあって、部屋代が、数十フラン、色褪せた赤いカーテン、大きな鏡、蝋燭のほうが似合っている燭台、純白とはいえないが、いちおう白いシーツ、やたらに大きなベッド、これまた大きな姿見。そんなホテルのほうが私の好みにあう。
「フィガロ」の美女には及びもつかないが、麿身をおびた肩、それなりにきれいなカーヴをえがく下腹部、腿から下がきゅうに細くなっていたり、洋梨のような乳房に少し疲れが見える女たち。そんな女の伝法なフランス語に、イタリアなまりを聞きつけるほうが、私にはうれしいのだった。
しかし、今の私は、宮 林太郎さんが、貧寒な私の人生に「パリを少しばかりおすそわけして」してくださったありがたさを思う。