今年の春、ちょうど桜の花の散る頃に、竹本 祐子が、絵本、「桜の花の散る頃に」を
出版した。
長野県松本市の「郷土出版社」から出ている「語り継ぐ戦争絵本シリーズの1冊で、テ
ーマは「学徒出陣」である。
主人公は、大正10年にうまれた「貴佑」(たかすけ)という少年。5人兄弟の末っこ。「たあ坊」と呼ばれている。負けずぎらい。子どもの頃、跳び箱の練習をしていて、手を複雑骨折した。
昭和15年、少年は早稲田大学に入学する。
翌年、太平洋戦争が勃発する。
「たあ坊」の兄たちも、軍需工場に働きに行くようになる。
昭和18年、戦局は日本に不利になり、それまで徴兵を猶予されていた学生も、戦争にかり出されることになった。
「学徒出陣」であった。
「貴佑」は、同郷の学生たちといっしょに、松本の部隊に入隊する。機関銃隊に配属されたが、豊橋の予備士官学校に入学。やがて、松本に戻り教官として新兵の訓練にあたるよう命令される。ほかの生徒たちは、南方に配属されて、それぞれの戦線に送られた。
戦時中・・・卒業、または学業終了のかたちで応召した学徒兵は、それぞれの原隊に配属されたとき、軍事訓練の成績で、「士官適」、「下士官適」、「兵適」、「不適」というふうにカテゴライズされる。私の場合は、中学からスキップして、大学にはいったが、徴兵猶予の年齢が下げられたため、1945年5月に「点呼」を受けて、「第二国民兵」に編入された。
「貴佑」は、徴兵検査では丙種だったらしいが、戦況の悪化で、この基準もゆるくなったらしく、私は第二乙という評定だった。
大学生といっても、なにしろチビで、ド近眼だったから、軍事訓練の評定は、おそらく「兵適」か、せいぜい「下士官適」だったと思う。
「たあ坊」の場合、豊橋の士官学校に配備されたのだから、当然、成績優秀で「士官適」だったに違いない。すでに戦況は悪化の一途をたどっていたから、おそらく本土決戦の要員としての訓練をうけていたものと思われる。
千葉などでは、ガソリン不足のため松根油の掘り出しや、九十九里浜にアメリカ軍が上陸するという想定で、塹壕掘りに巨木を切り倒す作業ばかりやっていた。1945年には、満足に飛べる航空戦力もなくなっていた。
1945年8月、日本はポツダム宣言を受諾し、連合国に降伏した。 (1)