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私の選んだ芝居は、テネシー・ウィリアムズの一幕もの。できるだけ短いもの、登場人物の少ないもの、費用をまったくかけないで、ただ、ゲキバンのように音楽のCDを使って効果をあげる。現実には――まるで小学校の学芸会程度の貧寒な舞台だったが。

このあと、私はドストエフスキーの小品を脚色したり、ピランデッロの一幕ものを翻訳して、クラスの皆さんに、セリフを覚えさせ、簡単な(もっとも初歩的な)動きをつけたりして、なんとか芝居らしい試みを始めた。

ピランデッロの戯曲は「花の女」という、当時としてはめずらしい不条理演劇。
登場人物は、女が2人。ローマに帰る最終列車に乗り遅れて、駅で泊まることになったブルジョア夫人と、駅の安食堂で働いている「女」。お互いに何の共通点もなく、なんの関係もない女ふたりが、深夜、もう汽車も通っていない時間に、お互いの女としての生きかたのすさまじいコントラストに気がつく。それだけの話だが、ピランデッロの原作を私が脚色したものだった。
私はこの主役の「女」を、野沢 玲子にやらせた。相手は、竹迫 仁子。

この稽古に入ったとき、すぐに気がついたのだった。
野沢 玲子が、本気でこの芝居にとり組んでいることに。

田舎の駅の安レストラン。最終列車が出たあとで、旅行者の上品なマダムが入ってくる。ここで働いている女は、早くかたづけて自分の家に帰ろうとしている。
とりとめのないやりとりのなかで、二人の女のコントラストが、ギラギラと浮かび上がってくる。後半は、ほとんどが「女」のモノローグ。
おぼえるだけでもたいへんな長さだったが、「女」の長いセリフに、どうしようもない孤独がにじみでていた。この孤独感は、イタリアの女たちのはげしい闘いや、気性のはげしさに裏打ちされている。しかし、カンツォーネや、ダンス、美酒美食を好み、男を愛し、おおらかで、何にまれめげない「女」。
野沢 玲子はそういう「女」になっていた。

私がいっしょに仕事をしたり、また、舞台のソデで観察する機会があった俳優、女優たち。私は、いつも才能のある俳優や女優たちに魅せられてきた。
その反面、才能のない俳優や女優たち、ようするに、おツムの弱い女優たちがじつに多いことにも驚かされてきた。新人にかぎらない。だれがみても才能のある有名な人たちの芝居にも、どうかすると、吐き気がするほどいやらしいものが見えることもある。ここでは例はあげないが。
野沢 玲子はプロの女優ではない。プロの女優がきたえぬいたテクニックと較べたら、笑いたくなるほど稚拙な芝居を演じていたかも知れない。しかし、私は、彼女の芝居に、真摯で、じつに誠実なものを見とどけて、心を動かされた。

芝居は、野沢 玲子にもう一つの自由をもたらした。それは翻訳という囲いを取っ払って、それまでほどくのに苦労した結び目のようなものを、一撃のもとに絶ち切った。
私は自分が脚色したピランデッロが、たった今、ここで書かれたばかりの芝居で、そこに登場してくる野沢 玲子はまさにピランデッロの「女」なのだと思った。

「花の女」の稽古で長丁場のセリフがつづくにつれて、玲子の輝きがましてくる。感情の昂りとともにみるみる頬が紅潮して、よく少女に見られるような色がみなぎってくるのだった。
玲子の演技を見ていると、イタリアの「女」の、現実の深い裂け目に落ち込んでゆくような気がした。そのセリフは、まるで彼女自身が投げつけたコルテッロ(ナイフ)のように、私の肺腑をえぐりつけた。
見ていて感動した。

おかしな話だが――若き日のマルタ・アッバ(ピランデッロ劇団の女優)も、きっとこんな芝居をしたのではないか、と思った。   (3)